2008年07月21日

空き缶

 二日たった今でも、私は余韻に浸っていた。道ばたで身じろぎもせず、ただ上を見あげて佇む。みっともないまでに口を開けたまま立ちつくしている私を見て、誰か笑うだろうか。笑うなら笑え。あの時交わした美女との長い口づけのあと、身も心もすっかり軽くなった私には他人の視線など気になるはずがあろうか。
 コーヒー飲料のロング缶として生まれた私の半生は不遇だった。ロング缶の存在とはいったい何なのだろうか。折もおり、日本茶が好まれるこの時代で彼らに太刀打ちできるコーヒー飲料といえば、苦みのきいたショート缶。本格派、深炒り、無糖、ブラック。彼らには凝った肩書きが用意されているのに、私にあてがわれた形容詞はせいぜい『甘さ控えめ』。コーヒーらしい苦さなんて誰も期待していないか?いいや、コーヒーであることすら私に期待していないのかも知れない。いつまでも売れ残っている自販機の中で私はずっとそんなことを考えていた。ああ、すべてがほろ苦かった。
 その日はありふれた冬の一日だったが、とにかく寒い日だった。とくに、夜に入ってからの底冷えは強烈で、できれば暖かい部屋の中でぬくぬくとくつろいだ時間を過ごしたいと思うような、そんな日だった。そんな日なのに、彼女は冷たく月の光る夜半を少しまわった頃、疲れた足取りで独り歩いていた。月はまだ東の空にあったから彼女の影を背後に道なりに長く伸ばしていたが、そんなことに彼女は気づきもしなかった。ただ、月の青白い光りが照らす疲れた顔を気丈に前に向けながら、かつかつかつとかすかにヒールの音をさせ、寝静まった町を歩いていた。そして、自販機の前を行き過ぎようとして――、立ち止まった。
 ハンドバックから財布を取り出した彼女の白い指が、五百円硬貨を親指と人差し指で挟んで自販機に入れた。機械の中を硬貨が転がり落ちる音がして、並んだボタンが赤く点灯する。彼女の白い指がショート缶のコーヒーを選ぼうとして、ちょっと惑った。青いラベルの都会的なそのコーヒーは彼女に似合う怜悧な雰囲気がした。でも、彼女は小さな溜息をつくと、その横のロング缶のボタンを押した。とたんに、私を支えていた底板がなくなり、私は外へ飛び出した……がたがたっとあちこちを壁にぶつけながら。
 彼女は自販機から私を取り上げると、両手で優しく包んだ。彼女の手は冷たかったが、うだるような暑さに慣れていた私にはむしろ心地よかった。彼女は私を包んだまま、すぐ近くにあったバスを待つためのベンチに腰をおろした。そして、私を軽く振ってからプルタブを引く。ぷしゅっ。小気味いい音を立てて私は深呼吸した。冷たい外気が入ってくる。寒さに思わず声が漏れそうになった私の口を、彼女の唇が塞いだ。
「熱っ」
一口飲んだ彼女は慌てて唇を離した。そして今度はゆっくりと私を冷え切ったその頬に当てると、
「あったかいな」
とつぶやいて、穏やかな表情をした。間近で見る彼女は澄んだ目をしていて、ショートな髪が月の光に黒く輝いていた。そして、化粧品のいい香りに混じってかすかにコーヒー飲料の甘い匂いがした。私はこの安らかな時間がいつまでも続けばいいと思った。だけど、彼女が一口コーヒーを飲むたびに彼女と過ごす時間がそう長くないことを感じないわけにはいかなかった。次第に中身の虚しくなっていく自分自身が別れが近いことを告げていた。
 あれから二日の月日が過ぎたが、私はあの夜に彼女に置かれたまま、道ばたに佇んでいる。人の通りがあると誰が行くのかと思わず見上げるのだが、彼女をあの夜から見ることはなかった。道の向こうを行く黒猫が私に声をかけた。
「おい、汝、転生の約束されたものよ。汝のさだめに従っていけ。罪は彼の女が負うべし。」
言われて気がついた、私は再生の道を歩まねばならない。それなのに再生(リサイクル)を妨げた彼女の行為は贖罪に値する。しかし、あの夜の疲労に満ちた彼女に責めを負うのか。
「黒猫よ、私は彼女を待っている。あの夜、彼女は私と約束した。再会の日に私に転生の務めを必ず果たさせると」
黒猫はそれを聞いて、ふんっと鼻を鳴らすと
「汝、空き缶よ。その言葉を審判の時にも言えるのか」
と訊いた。最後の審判。そこで嘘の証言をした者はその科として、大きな鉄の舌抜きでプルタブを引き抜かれる。それも缶の内側に入った舌の先を無理矢理ねじ上げられて、そこから引き抜かれるのだ。その苦痛を思い浮かべただけで身の縮む思いがした。しかし、私は答えねばならぬ。
「私は……彼女と約束したのだ」
無論、彼女があの晩に約束したことなど何もない。それなのに、私は彼女とぬくもりを分け合って過ごしたあの夜のひとときのためだけで、彼女をかばっているのか。鉄はそんなにも熱くなりやすいものなのか。それともロング缶特有の、すべてを抱擁する内容積の大きさと苦い現実を忘れさせるミルクコーヒーの甘さがそうさせるのか。自嘲の言葉が上澄みのように浮かんできた私の心を見透かしたように、黒猫が言った。
「されば、待つがよい。彼の女がこの町を出たこともいずれは知るだろう」
その言葉は、空っぽになった私の身体の中を何度もこだました。

(2006.3.22)
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2008年02月01日

ニヤリ

効用:
 ・物事や話のおかしさを口辺のわずかな歪みだけで端的に表すことができます。
 ・おかしさにウィットや皮肉を感じていることを伝えることができます。
 ・ときに、自分に余裕があることを示すための手段としても用いることができます。
成分:
 ・小さな頬笑み
 ・気の利いた皮肉
 ・余裕、もしくは強がり
用法:
 ・食前/食中/食後、団欒の時、映画や芝居の観覧時など、適宜ご使用ください。
  (ただし、お独りの時や睡眠中はご使用を控えた方が無難です)
 ・ユーモアのある皮肉を言った時、もしくはそれに遭遇したときのご使用がより効果的
  です。
 ・頻度を抑えたご使用、かすかに見せる仕草が、影のある渋さや余裕ある態度を示す時
  には重要となります。
 ・たまに、つまらないジョークを言ってしまったと思ったときに場を繕うためにもご使用
  いただけます。
副作用:
 ・頻繁なご使用はただの皮肉屋、内容の希薄な人物と誤解されるおそれがあります。
 ・共感者を伴わないご使用は、その場で浮いた存在になる、または寂しい思いをする
  可能性があります。
  危険な副作用ではありませんが、気になるときは親しい方とご相談してみてください。
使用上の注意:
 ・冷淡との過多な併用はコミュニケーションに軋轢を生む可能性がありますので
  ご注意ください。

(2006.11.22)
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2007年10月30日

アナザーベンジャミン

 ベンジャミンがいた。1人目のベンジャミンは背が高く、2人目のベンジャミンは小太り。3人目のベンジャミンは陽気に笑い、4人目のベンジャミンはなんの取り柄もない。
 5人目のベンジャミンはお人好しで、6人目のベンジャミンは怒りっぽい。7人目のベンジャミンは理屈にうるさく、クイズが嫌い。8人目のベンジャミンは好奇心旺盛で質問が続き、9人目のベンジャミンは眠ってるときが天国。
 10人目のベンジャミンは菜食主義で、昼は果物。卵もときどき野菜。11人目のベンジャミンは田舎暮らしで都会に憧れている。12人目のベンジャミンはフリスビーがうまく、13人目のベンジャミンは金曜日にこだわらない。
 14人目のベンジャミンは白い服をたくさん持っていて、15人目のベンジャミンは1枚も持っていない。16人目のベンジャミンは裏声で歌を歌える、大きな声で。たまに『うるさい』と怒鳴られるけれど。17人目のベンジャミンは円周率を1705桁まで言える。だけど、その数字が正しいのか誰も知らない。18人目のベンジャミンは酸っぱい物が苦手で、19人目のベンジャミンは名前を忘れられるのが得意。
 20人目のベンジャミンはいつもガムを噛みながら仕事をしていて、21人目のベンジャミンはペンギンを飼っている、心の中に。22人目のベンジャミンは料理をする、ごくたまに。晴れた休日の夕暮れどきには。23人目のベンジャミンはある真実を知っている。だけど、それを誰にも言わない。だから、それが重要なことなのかも分からない。
 24人目のベンジャミンは遅刻する。謝らない。気にも留めていない。25人目のベンジャミンはいつも待たされる。不平を言っても埒があかない。次は自分も遅れて来ようと思うのだけど、時間通りに着いてしまう。25人目のベンジャミンは『要するに』と言う。結論みたいなことを言う。誰でも知ってることなのに。26人目のベンジャミンは27人目のベンジャミンほどは度胸がない。
 28人目のベンジャミンには夢がある。誰にも譲れない夢が。29人目のベンジャミンは毎晩見る悪夢を誰かに譲りたい。
 30人目のベンジャミンは旅に出る。町から町へ、ただ気の向くままに。31人目のベンジャミンは温暖化が気になる。夏が来るたびに今までになかったほど暑い夏だと思う。それで、とうとうエアコンを買う。32人目のベンジャミンは月夜の海でボトルを拾う。すかさず、波打ち際まで走って大きく海に投げ返す。「海のバカヤロー」とか気まぐれに叫びながら。
 33人目のベンジャミンは夜更かしをする。昼の失われた自由を取り戻すように――。34人目のベンジャミンはカラスに怯えている。だからといって黄色い傘を差すのはファッションセンスが許さない。35人目のベンジャミンは密かに黒猫に怯えている。それほど死は微かに甘く身近な存在ではあるが、実際に亡くなった人はお祖母さん一人しか知らない。
 36人目のベンジャミンは種を植える、自然が好きだから。春にはカタカナだらけの不自然な花壇ができあがる。37人目のベンジャミンは人の悪口を言うのがうまい、痛烈なまでに。だから……友人も多い。
 38人目のベンジャミンは背が低い、世間的に言えばチビ。39人目のベンジャミンは空を見上げる。澄み切った青空、そびえたつ入道雲、彼方から広がる鱗雲、まばゆい茜空。40人目のベンジャミンはつらいことがあると大食になる。といって、いいことが続いても食が細るという訳ではない。41人目のベンジャミンは笑わない、かりそめにも。
 42人目のベンジャミンは海岸を散歩する。時々、砂浜に落ちている物を拾う、空き缶、ボトル、拾わなければ砂に埋もれてしまうもの。それがいつか夢の島になるとは知らない。43人目のベンジャミンは電車に揺られる。いつも、時間を気にしながら。
 44人目のベンジャミンはカレンダーをめくるのが好きだ。しかし、年末が近づくとさすがに寂しい気がしてくる。45人目のベンジャミンはコーヒーにミルクを入れる、コーヒーとわからないようにたっぷりと。46人目のベンジャミンはまったく後悔しない。それほど運がいい。
 47人目のベンジャミンは道に迷う。戻ろうとして、また道に迷う。道を聞いても、やっぱり道に迷う。48人目のベンジャミンは猫をかぶる。おとなしく、おとなしく。当然ねずみに飛びかかるすべも心得ている。49人目のベンジャミンは本を最後まで読んだことがない。
 50人目のベンジャミンはゼンマイ仕掛けで動く。いつゼンマイのねじを巻かれているのか、誰が巻いているのかは知らない。ただ、自分で巻いているような気はしない。51人目のベンジャミンは嘘をつけない、と嘘をつく。嘘をつくと顔に出るから、と平気な顔で嘘をつく。
 52人目のベンジャミンは無人島に流れ着く。南国の気候は豊潤な果実に満ち、目前の海が尽きない恵みを与えたとしても。遙か文明社会からの助けを願い、ベンジャミンは独り月夜の海に手紙を込めたボトルを流す――。

(2007.10.30)

ペンギンフェスタ2007に参加しています。
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2007年03月17日

風見鶏

 青銅の細工でできた彼の鶏は、性(サガ)もその鶏冠に似て硬直だ。
目に見えぬものは受け入れることができないらしい。
堅い羽肌に感じるこの感覚は、圧力は、爽快は――何で、何によるものなのかといつも訝しい。
それで、知らず風の方を向く。

(2006.10.4)


この作品は超短編小説会の2006年10月のタイトルに参加しています。
条件:タイトルが『風見鶏』
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2007年03月12日

ジャングル・マンデー

 オレはこの仕事に向いていなかったんじゃないかと思う。だって、そうだろう。金曜の晩にたまらない解放感にひたったまま日曜の晩まで突っ走って、あっという間の月曜日。朝、目が覚めて何時なんだろうと時計を見て、針の指す時間にどきどきしながらそれから今日は何曜日だって思い出そうとして、いつも「あっ」と思う。しまった、今日は月曜日だ。また、一週間が始まっちまったんだ。本当は始めから知ってたんじゃないかと自分でも思うぐらい、許されるぎりぎりで気がつくこのタイミング。オレ、やっぱりこの仕事嫌いなんだろうな。
 そんな感じで、毎週のようにブルーな気分一杯で電車に揺られながら職場に着くと、今朝は一段とスペシャルだった。昨夜、調子に乗って飲み過ぎたのか。それともクーラーのろくに利かない満員電車で撹拌されているうちに、脳みそが溶けたか蒸発したかそんなところなのか。ともかく、オフィスの中にいるのは全て動物に見えた。課長の席にはチンパンジーが座っていたし、先輩の席ではアライグマが眼鏡をかけていた。京子ちゃんの席にはすましたコアラが座っていて、田沢の席には馬が……そうか、前から何かに似た顔だと思っていたら馬だったのか。呆然と立ちつくすオレの横でチワワが大きく「ワンッ」と吠えて、東海林さんの席に座った。オレはよく分からなかったが、一応
「おはようございます、東海林さん」
と言っておいた。
 戸惑いながらも自分の席に座ると、横ではフクロウが嘴でパソコンのキーボードを打っていた。そうか、森田さんは根っからの夜型だからな。いつものように、まずは今朝来た書類から片づけようと、受け取りに積んである書類を上からいくつか取り上げた。……文字が書いてない。ただ、蹄の跡が点々と並んでいる。クラクラした。そうか、馬は文字が書けない。そこが納得するところじゃないぞと自分でも分かっていたが、これ以上深く追求する無駄をオレは悟っていたので、何も考えないことにした。社会人を二年もやっていると、オレも大人になるさ。馬の蹄から田沢の書いた課内回覧か何かだろうと検討つけて、森田さんの受け入れに回した。一つクリア。二つめは、と取り上げた書類には子供の手形みたいなものが一面に押してある。でも、どこか子供のものとは違う。ははぁ、課長か……。そう言えば、課長は前からチンパンジーみたいに部下にキーキー言っているばかりで、仕事らしいことをしてるとこ見たことないな。これは、課長がチンパンジーでも前と変わらないんじゃねえかと思いながら、その書類も森田さんの受け入れに入れた。
 次に受け入れに入っていたのは手紙だった。もちろん、宛先は書いていない……少なくとも日本語では。代わりに二本の線のようなもの書いてあった。オレはどうしてこの印でオレの所まで来るのだろうかという疑問には気がつかないふりをして、手紙を開けた。中には一枚の便せんと返信用の封筒が入っていた。便せんは右半分に、封筒の表書きと同じような四本の線が引いてあるだけだった。「ははあ、縦書きか、国内から来たんだな」と、オレはここでも大人の対応をした。そして、この手紙は誰から来たのだろうと考え始めた。まず、象が鼻で筆を握っているところを想像した。あり得ない話でもない。次にイカが自分で吐いた墨を足先に付けるところを思い浮かべた。これも、あり得る話だ。そして、アリクイが長い舌で墨汁を舐めているところを想像した。うんうん、これもあり得る……わきゃないだろ!オレは一言叫ぶと、送られてきた便せんにぐるぐるとむちゃくちゃな記号を書き殴り、返信用の封筒に入れて投函用のトレイに置いた。「二度と送ってくるなよ」と呪いの言葉も忘れずに付け加えながら。
 少し気の落ち着いたオレのところに、課長がやってきた。いや、課長の席にいたチンパンジーがやって来た。右手にはオレが先週出した報告書が握られていた。その報告書ははっきりと日本語で書かれていた。よかった、オレはちゃんと人間の文字を書いてたんだ。課長は、いやチンパンジーは報告書をオレの机の上に広げると、机をトントンと叩きながらキーキーと叫んだ。オレは戸惑いながらもシュンとして、おとなしく聞いていた。課長のチンパンジーは次第に興奮してきて両手で机をバンバンと叩き、何度も大きく飛び上がった。そして、最後には机の上に上がって報告書をびりびりと破り、高く放り上げて白い雪のようにあたりに降り散らせた。
 オレはその様子を眺めながら、課長ももっと大人にならなくちゃな、と思った。もちろん、目の前で興奮しているのが課長なのかチンパンジーなのかという疑問にはぜんぜん気づかないふりをして。

(2007.3.12)


この作品はデジタル社会塵第23回に参加しています。
条件:
1)知らない人から手紙が届く
2)その差出人宛てに手紙を出す(返事を出す)
3)雪が降る
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2007年03月10日

カセイセカイ

 世の中には二つの種類の人間がいるらしい。火星に住んでいる人と、そうではない人と。それはつまり、火星に住めるのは金持ちや有名人や……要するに特別な人達で、僕みたいな平凡な人間は曇りがちな夜空を眺めてその様子を想像してみるぐらいしかない。だいたい僕にはどの星が火星なのかも分からなかった。
 印刷所で働いていた。毎日、新聞に挟む広告を束ねてはトラックに積んでいた。赤や青で派手に色づけされたチラシは人目を惹くのだろうけれど、見慣れてしまうとどれも同じように見えた。たまに感じる違いと言えば、青インクばかりを刷った日は指先が青く染まって嫌だと思うことぐらいだった。赤でも黒でも指先が染まってしまうのは変わらなかったが、青く染まるのは一番気持ちが悪かった。でも、翌朝にはそんのことなんかすっかり忘れている、その程度の違いだった。
 地球はすでに瀕死らしい。印刷所に『政治ビラ』とおかみさんが呼んでいるチラシを時々持ち込んでくるグレッグさんがそう言っていた。おかみさんは印刷所の社長の奥さんで、社長がこっそり『政治ビラ』を工場に流しているのを知っていながら黙認しているようだった。だから、僕たちもビラが流れていることは何となく仲間内でも話題にしないようにしていた。おかみさんだけは『政治ビラ』の話をした。「どこそこの印刷所で刷っていることがばれて、みんな捕まったそうよ。うちには関係ない話だけど――用心はしなくちゃね」っていう風に。
 グレッグさんは地球に革命を起こす地下活動をしている。そして、それを成功に導くためのビラを月に二回、工場に持ち込んでくる。仕上がったビラを渡すと「ありがとう」とはっきりした声で言った。僕も革命運動に誘われるんじゃないかと思っていたけど、そんなこと決してしなかった。社長はグレッグさんが火星からやって来た、と言った。火星の人達の不当な支配から地球を解放するために、恵まれた生活も何もかも棄ててやって来たんだと言った。そう思うと、グレッグさんの爽やかな声も納得できる気がした。

 「それで、行く気なの?」
手紙を読み終えたリザが、しばらく考えた後で訊いた。リザは僕より二歳上だ。彼女の身長を追い越したのは十年以上も前だけど、僕たちの関係、つまり彼女は僕より年上だという事実は相変わらず続いている。
「行ってみようと思うんだ」
僕は昨日、一晩悩んで出した結論を言った。彼女は「そう」とつぶやいて手紙を封筒に戻そうとした。その時、同封されていた『火星行き』の切符が封筒から床に落ちた。
 手紙は火星に住む弁護士からだった。奇特な実業家がいて、僕に火星での仕事の世話をしてくれるという。「もちろん、君さえよければ」と但し書きはあったが、来ないはずはないとの確信が文面には溢れていた。時々、あの星の人はこういうゲームをするらしい。噂には聞いていたがそれが本当で、しかもそれが僕に当たるとは思いもしなかった。でも、もしも当たったら……そうを考えていなかったと言えば嘘になる。でも、そんな話、人を馬鹿にしている。もし当たっても、僕が行くはずがない。手紙を受け取るまではそう思っていた。
 でも、僕達はその星についてどれだけ多くのことを知っていただろう。そこでの気候や生活、流行、楽しみ、いろんなことを知っていた。それを僕に教えたのはリザだ。だから、僕が行く気になったのも、元はと言えばリザに原因がある。
「行って、もしたいしたことない所なら、すぐに戻ってくるよ。ともかく、まずは行ってみようと思うんだ」
僕はあまり期待してないんだけどというつもりで、リザに言った。

 グレッグさんが工場にやって来たのは、僕が火星に行くという返事を弁護士に送って翌日のことだった。三日後には印刷所も辞め、次の惑星間急行で地球を離れることになっていた。これで、しばらく皆に会うこともないのだと思うと少し寂しい気持ちになる、そんな時だった。
 グレッグさんは、もう僕が火星に行くことを知っていた。当然のことだ、すでに町中の人がそのことを知っていた。僕ははしゃいでいたわけではないが、明るい声で言った。
「グレッグさん、僕が火星に住むので怒ってます?」
「なぜ、私が怒ると思うんだね」
グレッグさんは不思議そうに訊いた。
「僕はだって、グレッグさんの嫌いな火星の人になっちゃうんですよ。敵じゃないですか」
「私が火星が嫌いだって?」
グレッグさんは驚いて訊いた。
「グレッグさんは火星から来たんでしょ。社長から聞きましたよ」
僕がそう言うと、グレッグさんはちょっと困ったような顔をして
「そうか、知ってたのか」
と答えた。多分、面と向かってそのことを訊いたのは僕がはじめてだったのかも知れない。
「火星はいいところなんでしょうね。楽しみだなぁ」
なんで地球なんかに来たんですか、とは僕は言えなかった。
「昔は地球も同じだったんだよ。河はこれほど汚れていなかったし、空気も澄んでいた。農作物も収穫もこれほどひどくはなかったし、海では……」
いつもと変わらない、真面目なグレッグさんに僕は嬉しくなった。今日がグレッグさんと会う最後の日かも知れないのに、この人はいつもと何も変わらない。

 雪が降っていた。雪が……温暖化の進んだ地球ではとうに見られない光景だった。でも、本当の火星の気候では雪を降らす雲など存在し得ない。「火星の雪は作られたものなの。でも、だから地球の雪よりも綺麗なのよ」リザの言葉を僕は思い出した。
 惑星間急行を降りた僕を弁護士が待っていた。弁護士は僕に会うなり、コートにかかった雪を払い落としながら言った。「よく来たね。さっそく君のために用意した家の方に行ってみようか。気に入るといいんだが」愛想のいい人だったが、どことなく手慣れた感じがして、彼がこのゲームの胴元ではないかと思わせた。すでに彼らのゲームは始まっているような気がした。
 僕の家、いや僕があてがわれた家は間取りも広く快適だった。しかし、これぐらいの家はこの星ではたいしたことないらしく、弁護士は申し訳なさそうに行った。
「ちょっと手狭かも知れないけど、適当な物件がなくてね。時期を見てもっと大きな家に移れるよう手配するよ」
弁護士の言葉は始めはこれくらいだけど、頑張ればもっといい暮らしが出来ると言っているようにも聞こえた。到着した翌日から僕の仕事は始まった。実業家、という青年に割り当てられた仕事は地球と火星の間で輸送されている荷物の確認だった。確認といっても実際に荷物をチェックするのはロボットが行うため、僕はその結果のリストに目を通すだけだった。一日二時間も働けば、それで仕事は終わった。ここでの仕事はどれもそんな簡単なことのようだった。
 この星の人達はどことなくみんな似ていた。スタイルのいいシルエット、洗礼された顔立ち、優雅な生活。想像していた通りだった。それを可能にしていたのは、高度な整形医療やロボットなどの科学技術、そして限りない財力、つまり彼らが独占しているものだった。この星では誰も年を取らなかった。彼らの生活はまるで永遠に見えた。しかし、実際には永遠を生み出すことなど出来ない。この星でも足りないものは多かったが、それらは簡単に地球からの物資で補うことが出来た。地球は彼らの生活を永遠に循環させるために存在しているのではないかとさえ僕には思えた。

 火星に来て一年が過ぎようとしていた。この星の季節は人工的に作られたものだったから、カレンダーを見なくても気温だけで季節が一巡してきたことが分かった。昨夜、初雪が降った。それは、僕がこの星に来たあの日が近いことを気づかせた。
 この一年、僕は何をしてきたのだろう。仕事は簡単で楽だった。始めの頃に感じていたわだかまりのようなものは、いつの間にか忘れていた。彼らは結局、特別だった。僕のことなどゲームの駒はおろか、暇つぶしの対象とするすら思ってはいなかったようだ。僕は彼らの永遠を回す歯車の一つであり、つまらない仕事を毎日繰り返す機械部品の一部に過ぎなかった。
 この星にいても彼らのようにはなれない。始めから分かっていたことだが、受け入れるまでにずいぶんと時間がかかってしまった。「帰ろう、地球へ」不意に思った。リザの顔が思い浮かんだ。「火星はやっぱりいいとこだったでしょ?」いや、想像していた通りのこともあったし、そうじゃないこともあったよ。でも、ワクワクなんかしなかった。「なぜ?素晴らしい生活だったでしょ」そうだね。彼らの暮らしは優雅で快適だけど、眺めているだけなら綺麗なチラシを見ているのと変わらないよ。どうせ、僕達の手には入らないんだ。「そうね……夢なのね」夢じゃないよ、分かったんだ。この星が光ならば、その陰が僕達の現実なんだ。
 グレッグさんは何をしに地球にやって来たんだろうと、僕は思った。社長は地球を解放するためと言っていた。おかみさんもきっとそう思っている。でも――、と僕は思う。この星に来てから、この星の人達の考え方が分かってきたような気がする。この星の人達にとって大事なもの。それは、優雅で快適な彼らの暮らし。そのためなら、彼らの永遠を循環させるのに必要なら、彼らは地球の一つぐらい変えようとするのではないか。錆び付いた歯車を磨き直すように――いや、考えすぎだよね。僕はグレッグさんのいつも真面目な顔を思い浮かべながら、嫌な空想を頭の片隅へ追いやった。
 次の惑星間急行で地球へ帰ろう。この星で貯めた金はその切符でほとんど消えることになるだろうが、惜しくはなかった。帰ることは知らせずにいよう。突然帰ったときのみんなの驚く顔が楽しみだ。リザは――彼女はどんな顔をするだろう。もう、僕達は火星の話を前のようにして過ごすことはできない。それなら、今度は何の話を――きっと、僕達はもっと素晴らしい未来の話をして過ごすことだろうと思った。

(2007.3.10)


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条件:
1)知らない人から手紙が届く
2)その差出人宛てに手紙を出す(返事を出す)
3)雪が降る
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2007年01月28日

東京ホタル

 仲間とはぐれた一匹のホタルが、瞬くネオンの光群に誘われて大都会に紛れ込んだ。だけど遠くから見た光の粒子達は近づくほどに大きくなり、街灯やテールランプ、電飾や信号機などへと次々姿を変え、ホタルらしいものは一つも残りはしなかった。
「ああ、みんなどこに行ったんだろう。ここはどこなんだろう」
つぶやいたホタルに、背後から来た何かが勢いよくぶつかった。
「痛いっ」
「ああ、ごめんよ。気づかなかったもんでね」
答えた先をよく見ると、闇の中にぼうっと白い羽と太い触覚が見えた。蛾だ。
「気づかないだって?僕はいつもこうやって、光りを出して知らせているじゃないか」
「光り?なんのことだ、そりゃ?」
ホタルが怒って尾部の光りを蛾に突き出すと、蛾は大声で笑い出した。
「それが光ってるんだって?ははは。ここいらで光るっていうのは、ああいうのをいうんだぜ」
そういって蛾が触覚を向けた先にはまぶしい街灯の光りが見えた。
「じゃあ、悪いが俺は急いでるんでね。あの光りを見ると飛ばずにはいられない、わかるだろ」
蛾はそう言うが早いか、街灯に向かって羽ばたいていった。
「あれが光ってるだって?ただ下品に明るいだけじゃないか。光りっていうのは瞬きながらいつでもメッセージを伝えているものさ」
遠く去っていく蛾の後ろ姿を眺めながら、ホタルは憤慨して言った。

 あてもなくホタルは街の上を飛んでいた。誰か自分の送る光りのメッセージに気づいてくれるのではないかと期待したのだが、蛾の言っていたことは本当なのかも知れない。これだけ光りが溢れる所では、自分のことなど誰も気がつかないのではないかとホタルは思い始めていた。はぐれてしまった仲間とも会えそうにないな……。そう思ってホタルが遠くを見渡した時だった。誰かが自分にメッセージを送っている。絶えず点滅を繰り返し、小さいながらもしっかりとした強さで確かにメッセージを送り続けている。ホタルはその光りに自分も尾部の瞬きで答えながら、見つけた『仲間』めざして飛び始めた。その光りが地上333m、東京タワーの頂点につく航空障害灯の明滅だということも知らずに。
 身体の小さなホタルには、タワーの全長を一度に昇るのは無理だった。それで、少しずつ、少しずつ、タワーの梁で休みながら昇っていった。時は既に深夜をまわっていたので、タワーのライトアップもとうに終わっている。障害灯はほかのビルやタワー自身にもいくつか付いていたが、ホタルの知っているメッセージを送ってくるのはタワーの頂点にある障害灯だけだった。それで、ホタルはタワーの上にいる仲間と孤独を共有している気分になっていた。
「きっと、あいつにもメッセージに答えるやつはいなかったんだ」
ホタルは昇りながら考えた。
「だから、きっとこんな上まで昇ってきたんだ。誰も見つけられなくて、だから誰からも見つけられるとこを探して、こんな高いところまで昇っていったんだ」
次第にホタルの体力は限界に近づいていた。昇る時間より休む時間の方が長くなってきていた。今夜、あの仲間と合流するのは諦めた方がいいかも知れない。もうすぐ、鳥たちが目覚める朝がやってくる。
 「今夜はそこまでいけない。明日の夜、会おう」ホタルは新たな仲間に光りのメッセージを送ると、安全な寝床を探して下界に目を向けた。すると、少し離れたところに今まで見たこともないほど温かい光りが満ちているのが見えた。「あれは何だろう」光りはホタルを呼ぶメッセージを送ってはいなかったが、疲れたホタルはもうそんなことを気にはしなかった。ただ、温かい光りに吸い寄せられて、タワーの中ほどから街路樹のそばにあるその光りまで一気に降りていった。青白い光りがホタルの身体を包む。不思議な気持ちだ。堪らなくなってホタルは光りの芯まで飛び込んだ。
「バチッ……バチッ」
虫寄せランプのそばに張り巡らせた高圧線から少し鈍い音を伴って火花が飛び、ホタルの身体を白色光が貫いた。

(2006.8.28)

この作品は超短編小説会の2006年8月のタイトルに参加しています。
条件:タイトルが『東京ホタル』
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2006年11月29日

白いクリスマス

 何でもないはずの冬の一日が、どうしてそんな大切な一日になるのだろう。私とは、いいえ、本当は私たちとは全然関係ない男が生まれただけの日なのに。私はぼんやりする頭で一生懸命考えた。こんなことを思うだけなのに、一生懸命にならなくてはいけないのだ。そして、たぶん今考えなければあとから考えることなんてもうない。だから、考えようと思うのだけど、痛タタタ、頭が脈打つようにズキズキする。

 ……また、寝てしまっていたようだ。もう昼過ぎだろうか。空が曇っているようにどんより薄暗く、時間が分からない。物音もしない、静かだ。でも時々何かがはるか上空を飛んでいく音が聞こえるような気がする。いいえ、それは私の思い違い?分からない。でも、本当はずっと何かの音が聞こえ続けていたような気がする。それは今も。……幻聴?私はそれを振り払うように右手を大きく振り回した。あ、私、腕が動くんだ。
 思い切って起きあがってみた。大丈夫、ちゃんと立てる。立ち上がってみたら、なんだ体がいつもより軽い気がする。そのまま、思い切って二三歩歩いてみた。あーだめ、ふらふら。やっぱりね。思った通りだわ、ふふふ。おかしくもないのに笑いたくなってきた。体は軽い。だけど、軽いからと言って簡単には歩けない。私は手すりにしがみつきながら、どうにか階段を下りた。いつもなら、一段とばしで降りれる階段なのに。一段下りるごとに少し頭がズキズキ痛んだ。
 一階は昨日のままのようだ。少し開いている居間の扉から、いとこの一輝が着ていたサンタの赤い服の一部が見えた。妹の美香ために一輝は昨日サンタの格好をして現れたのだ。美香ははじめ驚いたようだったけど、すぐに一輝に気づいて、プレゼントはなに?とせがんだ。私とは十も年の離れた美香。一輝は私と同い年だから、今年で二十二か。私が二階に寝に上がった後も、お父さんと飲んでいたんだろうな。酒には弱いくせに、懲りないやつ。痛タタタ、頭が痛い。
 私は居間をそっとそのままにして、ドアを開けて裸足のまま外へ出た。十二月の空気はキンキンに冷えて寒かった。空は、やはりどんよりと曇っていた。寒さでちょっと頭は冴えてきたような気がしたけど、体は相変わらず軽かった。今、何時頃なんだろう。特に空腹は感じなかったが、喉が乾いていた。だけど、別に水を飲みたいとも思わなかった。

 外は静かだった。風が時折つくる音のほかは何も聞こえないようだった。今も耳鳴りのような高い連続音が私には聞こえていたが、それはもう慣れてしまっていた。ズキズキとする頭痛も、足の裏に感じるコンクリ張りの戸口の床の冷たさも、もう慣れてしまったようだ。冬の風の寒さも、空から降ってくる白い薄片も私を家に連れ戻す理由にはならなかった。
 私は何かを待っていたのかもしれない。でも、私には分かっていた。いくら待っても誰もやって来ないことを。今朝の朝刊が配達されることはないし、いつものように飼い主を連れて駆けていく犬も今日は通らないだろう。どんよりとした雲の下はひどく静かで、遠くを歩く人の足音でさえ聞こえてきそうなのに、なにも聞こえはしない。ただ、冷たい風だけが景色を少しずつ白く染めながら、時折吹き抜けていくだけだった。
 今日はクリスマスだ。どこか遠く、はるか遠くの国ではきっと賛美歌が聞こえ、暖かなろうそくの炎が揺らいでるのことだろう。教会に人が集い、神父が厳かに説教を述べる。人は原罪を負って生まれてきた。原罪?どこかの楽園でリンゴを食べたこと?途方もない話に私はとまどいを感じる、たぶん。だってリンゴ、リンゴだよ。リンゴの一つぐらい食べてもいいじゃん。
 私の疑問に答えるかのように、再びズキズキとした頭の痛みが襲ってくる。さっきより何百倍も痛い。喉もからからだ。唇もかさかさして、ひりひりと痛み始めたけれど、私は相変わらず冷たい風の吹く戸口の前でじっと立っていた。不意に、向かいの家の二階のサッシが大きな音を立てて落ちた。ぽっかり空いた窓から隣に住むおじいさんの影が見えた気がしたけど、ただの気のせいかも知れない。いいや、たぶん見えたけど、それは崩れ落ちるように倒れたところのようだった。何にせよ、その後は相変わらず聞こえる耳鳴りと風の音しかしなかった。もう、いくら耳を澄ましても、これから正月が開けて初場所が始まっても隣の家から相撲の音が漏れてくることもない。私は原罪とかいう言葉について考えてみようと思ったけれども、もう何の言葉も思い浮かばなかった。かさかさに乾いた私の頬を涙が流れて、ひりひりとした感触を残した。もう、一輝も美香もお父さんもお母さんも、誰も起きてはこないことを私は知っていた。皆が眠ってしまったこの町で独りの孤独を感じた。でも、寂しくはなかった。この空から降ってくる白い薄片に包まれるころ、私も長い眠りに落ちることだろう。みんなの待つ、深い、二度と目覚めることのない眠りに。この空を舞う白い灰が放射能と共に私の世界を埋め尽くす頃には――きっと。

(2006.11.29)

この作品はデジタル社会塵第22回に参加しています。
条件:
1)クリスマスイブの翌朝、家でサンタが死んでいるのを発見する。
2)その日の朝刊はなぜか配達されなかった。
3)登場人物に相撲好きがいる。
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2006年11月04日

夏色の嘘

 幾通かのダイレクトメールに混ざって、あいつからの手紙が来ていた。そうか、もうそんな時期か。俺は飲みかけのビールの缶を机の上に置くと、びりびりと手紙の口を破って中の絵葉書を取り出した。散らかった机の上の物を脇に寄せて、代わりに葉書を置く。ビールの缶を持ち上げて一口飲んでから、紺色のボールペンを手に取った。
「翔へ
 誕生日おめでとう」
真っ白な葉書の裏面を紺の文字で埋めながら、もう五年ほど会っていない翔の顔をおぼろげに思い浮かべた。
 俺は洋子と六年前に離婚した。その頃の俺は小さな会社を経営していて、だけど俺ならもっと大きな仕事が出来ると思っていた。だけど、洋子はそうは思っていなかったようだ。実際それが正しかったんだろう。離婚したあと、大きくなるはずだった俺の事業はあっけなく行き詰まり、会社は規模をさらに小さくした上で人手に渡った。今、俺は二部屋しかない安アパートに住みながら、続かない仕事を繰り返している。
 二人の離婚の手続きがすべて終わったあと、日本を離れる俺を洋子は翔を連れて空港まで見送りに来た。本当はただの視察のために数日ロス近郊を訪れるだけだったが、洋子にはアメリカ企業との提携が決まりそうなので直接交渉に行くことにしたと嘘をついていた。
「この提携が決まったら、俺もロスに住むことになりそうなんだ。向こうを本拠にした方が、何かと便利がいいからな」
そう、と洋子も晴れやかな笑顔で応えた。この間まで二人の間で交わされていた軋轢などすっかり忘れてしまったような、いい笑顔だ。
「おめでとう、念願が叶ったのね。でも、これからが大変になるんじゃない?」
大変なのはどっちだよ、と俺はその時言いそうになった。急に洋子が離婚をしたいと言い出さなければ、また仕事を探して足を棒にする必要もなかったはずだ。でもまあ、離婚の原因は俺にあったのだから彼女を責めるべきではないかも知れない。しかし、翔を引き取ることにあんなにこだわらなければ、もっと楽な再出発が出来たはずだ。あの時、彼女は「あなたのような人になんか、翔は任せられないわ」と何度も口にしていた。それが俺の生活態度だけではなく、経営者としての能力までも言われている気がして、俺はその度に頭に来たものだ。本当はあの頃から既に会社は危なくなってきていて、――彼女はやはりそのことも気づいていたんだろう。
 絵葉書に翔への言葉を書きながら、その文面が去年とほとんど同じなことに気がついた。当たり前か、去年と何も変わっていないんだ、俺は。この絵葉書はロスに住む友人に送ってもらったものだ。これを封筒に入れて送り返すと、あいつはさもロスにいる俺が送っているかのように翔に送り届けてくれる。ここまでしないと、今の俺のプライドを保つことは出来ないんだ。翔に対しても、洋子に対しても。絵葉書を表に返してみた。そこにはロングビーチのマリーナの風景が描かれていて、まぶしい夏の光りであふれていた。俺がつかみ損なった世界。この絵葉書を眺める翔が抱くだろう期待を想像して、俺は重い気持ちで葉書を裏面に返した。
 飲みかけの缶ビールはとっくに炭酸も抜けていて、一気に飲み干すと苦い味だけが舌に残った。

(2006.6.11)

この作品は超短編小説会の2006年6月のタイトルに参加しています。
条件:タイトルが『夏色の嘘』
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2006年09月16日

赤白

 「あら、他に誰か来てるの。」
うしろで美樹の声がした。振り返ると、暖かくなってきた春の日射しに合わせるように軽装になった美樹が笑って立っていた。いつの間にか、待ち合わせの時間になっていたようだ。
「いや、そんなんじゃないよ。ただ、どっちがうまいかと思ってね。」
言いながら、私はワインの入った二本のデカンタをテーブルの脇へよけた。美樹が向かいの席に座る。二人の間には赤と白のワインで満たされたグラスが二つ並んで立っていた。
「私もちょっともらおうかな。ねえ、赤と白のどっちがおいしかった?」
二つのグラスを交互に眺めながら、美樹が明るい声できいた。

 「なあ、ワインって赤と白、どっちがうまいと思う?」
それまで黙っていた剛が妙に明るい声で言った。あれは確か中学からの帰り道のことだっただろうか。いつもなら話の輪の中心にいる剛が不機嫌な様子で黙っていたので、なんとなく重苦しい気分でみんな歩いていた時だ。
「通は赤の方がいいって言うらしいぜ。」
いつものように何でも知っているような顔でマサトが答えた。
「いいって、どういう風にいいんだよ。」
少し不機嫌な声に戻った剛が言い返した。マサトは少し顔を赤らめたが、それ以上なにも言わなかった。代わりに、剛は私の方を向いて
「哲也、お前はどっちがうまいと思う。」
と聞いた。
「さあ、僕はどっちも飲んだことないし」
「そうだよ、飲んでみないと分かるわけないじゃん」
調子のいいショウが笑いながら私の後に続いた。
「どうせ、剛だって飲んだことないんだろ?」
 そのすぐ後に、私達は剛の家に集まっていた。もちろん、目的はワインのことをはっきりさせるためだ。剛の家はフローリングのよく似合う新しめの一戸建てで、玄関が見上げるばかりの吹き抜けになっている。いつもなら、吹き抜けの下でおばさんに挨拶をして入るのだが、その日は誰もいない代わりに奥から剛の声が聞こえた。
「おう、勝手に上がってきてくれ。奥の台所にいるから」
台所に入ると、すでにマサトとシュウが来ていた。二人は剛が赤ワインのボトルを開けようとしているのを、にやにや笑いながらはやし立てていた。剛の足下にはコルクが小さなくずになって落ちていた。すでに、何度か開けるのに失敗したらしい。
「あのワイン、どうしたの」
私が小声でマサトに聞くと、「剛の家のワインらしいよ。なかなかいいワインらしいぜ」と嬉しそうに答えた。
「でも、勝手に開けてもいいのか?」
「ああ、今日は家に剛しかいないから親にはばれないってさ。」
「ふーん、そんなものかな」と、私はそんなことないんじゃないかと思いながらもうなずいた。
 ついに、四つの並んだグラスが順に濃い赤褐色の液体で満たされた。初めのグラスはコルクが浮いているのが見えたし、まだ中学生だった私はグラスに注がれるごとにワインはだんだん濃くなっていくように思えたので、無難そうに見える二番目のグラスを選んだ。一番目のグラスは剛が、三番目のグラスはシュウが取った。マサトは「最後のグラスには沈殿物が……」とぶつぶつ言いながらも四番目のグラスを取った。みんなで互いに何か言い合いながら乾杯して、ワインを一口飲んだ。――誰もうまいとは言わなかった。剛は「渋い」と言い、シュウは「甘くない」と言い、マサトは「少し古かったんじゃない」といった。私も渋くて甘くないと思った。二口目も飲んでみたが、やはり誰もうまいとは言わなかった。
 「じゃあ、白いワインも飲んでみよう。」
少し顔の赤くなった剛が三割ほど飲んだグラスをテーブルに置いて言った。
「え、さっき白ワインは見つからないって言ってたじゃんか。」
やはり頬に赤みのさしたマサトが、大げさに声を上げて言った。
「ああ、白ワインはないよ。白ワインはーな。でもさ、お前さ、白ワインと赤ワインの違いってなんだか知ってるか?」
質問に意表をつかれたマサトは右斜め上を軽く見上げたまま黙ってしまった。代わりにシュウが大声で答えた。
「そりゃ、決まってるじゃんか。赤ワインは赤くて、白ワインは白い。」
「いや」私もつられて声を上げた。「白ワインは透明だろ?」
「それも違うな」
言いながら剛が少し黄みがかった透明な液体の瓶をテーブルの上に置いた。
「白ワインの色はこれだろ。」
剛が置いたのは酢の瓶だった。
「これで白いワインを作るぞ」
赤らんだ剛の顔は、しかし真剣である。マサトはあっけにとられて何か口走ったが、「よし、作るぞ」と叫んだシュウの声にかき消された。
 ボトルにわずかに残っていた赤ワインを九割方の酢で割って作った白ワインは、やはり酢の味しかしなかった。飲めるんだろうけど飲めない赤ワインと、飲めるんだけど飲みたくない白ワイン。私とマサトとシュウはこの二つのグラスをテーブルの上に並べ、その中の液体を互いに持て余しはじめていた。シュウは酒に弱い性分なのか、少し気持ちが悪そうにも見えた。剛だけは相変わらずの真剣さで赤ワインと白ワインの飲み比べを続けていた。少し赤らんだ顔もさっきと変わらない。
「それで、赤と白、どっちがうまかったんだ?」
私が聞くと、剛は少し遠くの方を見るような目をして白ワインを一口飲み
「白ワインかな。ちょっと酸っぱいけどな」
と真顔で言った。酸っぱいだって、お酢なんだから当たり前じゃないか。私が笑って言うと、剛も急にさばさばとした顔になって笑って「そりゃそうだよな。でも赤よりこっちの方がうまいと思うな」と答えた。
 それから一ヶ月ほど後のことだったか。剛の両親は離婚し、剛は父親に引き取られて遠くの町に引っ越していった。「あのワインを飲んだ日が実際、山場だったらしいぜ」どこからそんな情報を聞いてくるのか、剛がいなくなった後でシュウが私にこっそり教えてくれた。それでだろうか、神妙な顔をして渋いワインと酸っぱいワインを交互に飲み比べている姿が、私の剛についてはっきり覚えている最後の記憶になった。

 「ねえ、赤と白のどっちがおいしかったの?」
私が黙っていたので、美樹はもう一度同じことを聞いた。あの時、私に促されて剛も同じように結論を導き出したのだろうか。でも、その結論は結局、離婚したら父親についていくということだったとしたら、たぶん必要だったのは決断だけで結論なんて始めから決まっていたんだと思う。今、私がこうしてワインを眺めながら最後の決断をしようとしているのと同じように。
 私は赤ワインのグラスを取って、軽く一口飲むと
「やっぱり赤の方がうまいと思うな。ちょっと渋いけど」
と言いながら、右のポケットに忍ばせた赤い指輪の箱にそっと手を触れた。

(2006.01.20)

この作品は超短編小説会の2006年1月のタイトルに参加しています。
条件:タイトルが『赤白』
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2006年06月27日

淮南の牙

 一

 行軍の足は遅かった。敗戦に近い退却が兵士の足を鉛のように重くし、洛陽への道を疲労がさらに遠いものにしていた。馬上の諸葛誕が小さく「おのれ、元遜め」とつぶやいた。諸葛恪、字は元遜、誕とは同族である。恪の一族は彼の父の代に中原の戦乱を避けて徐州から揚州へと移り住み、後にそこで建国された呉に出仕した。時は漢朝の崩壊と共に起こった魏呉蜀が天下に覇を競った三国鼎立の時代である。恪の父、諸葛瑾は長く続いた戦乱の中で次第に頭角を現し、位はすでに人臣として最高となる大将軍へと昇りつめていた。瑾の弟、諸葛亮は既に亡くなっていたが、蜀において得た丞相として声望を知らぬものはいない。そもそも、荊州の一客将に過ぎなかった劉皇叔が益州の地に天下の一隅を得たのも、亮の知謀がなければ成し得なかったことである。魏は天下の要所である中原の地を占めながら、長年にわたり呉と蜀とを併呑することが出来なかった。この原因の一つに彼ら諸葛兄弟の影があったことは誰もが認めるところである。それゆえ、誕が魏に出仕した頃、密かな蔑みを持ってささやく者がいた。「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た」と。そんな嘲りを誕は冷笑で受け流した。自分が狗なのかどうかはそのうちおのずと分かることだ。その自信を裏付けるように、誕は御史中丞から尚書、揚州刺史へと順調に昇進を重ねていき、鎮東将軍として呉に対する防衛を一任される身分になっていた。そして、呉の将軍として誕と対峙したのが皮肉にも同族の恪だったのである。
 戦況はむしろ魏の優位に進んでいた。兵力にしても武具にしても、もともと魏が呉に劣るわけがなかったのである。それに加えて誕には剛直なまでに公正を重んじる潔癖さがあった。戦場での兵士は常に報償を目指して奮闘するものである。誕はその期待に厳正をもって応え、功績のあった者にはそれに相応しい論功を与え、軍規を乱した者には身分を問わず罰を与えた。その公正さは誕と兵士達との間に揺るがない信頼を生み、またたくまに自在な用兵を可能にした。そうなれば、思慮にどことなく甘さが感じられる恪に率いられた江南の兵など、怖れるものではない。誕に率いられた魏の兵たちは呉の國境を縦横無尽に駆けめぐった。
 「将軍、まもなく濡須口も我らの手に落ちましょう」
普段は寡黙な武官の桓治が連日の勝利に気をよくしたのか、諸葛誕に話しかけた。
「ああ、秋までには洛陽に戻れそうだな」
誕の言葉にも余裕が表れていた。洛陽では才人の一人としてとして名をはせていた誕である。酒の杯に秋の月を浮かべ、それを眺めながら友人と語らって過ごす自分の姿を思い浮かべていたのかも知れない。しかし、その穏やかな時も幕営に飛び込んできた兵士の一言によって打ち破られた。
「将軍、川の水を飲んだものが突然倒れ始めましたっ」
「倒れた者の数は!」
桓治が兵士に怒鳴った。
「およそ二千。ほかに、数百名の者が水を口にしています」
暑い江南の夏である。北方から来た兵士には水なしではつらい。土地の水は危険が高いと知りつつ、多くの者が飲んでしまうのが実際である。「ここは一旦、北岸まで退却するか」誕はすぐに戦線の後退を考えた。病んだ兵士を抱えるとその三倍の兵の動きが停滞する。それになにより安全な水の確保が必要だ。しかし、歩哨の兵が幕営に駆け込んできた時、誕は自分の考えが甘かったと認めざるを得なかった。
「呉の兵およそ八千、西南より進軍してきます」
誕は今回の兵士の病が恪の策謀によるものであると直感した。呉の山越には人を病にかける水があるという。おのれ、元遜め、魏兵を破ろうとするあまり川の水を汚したのか。
「将軍、如何なさります。呉兵が参りますぞ。我らは四万の兵、討って蹴散らしましょうぞ」
桓治が言うと、誕は大きく頭を振った。
「だめだ、正面から来るのが八千でも我が軍はすでに動揺している。それに、元遜はどこかに埋伏の兵を隠しているはずだ。ここは一旦、合肥まで撤退する。病の兵よりすぐに退却を開始せよ」
今を逃すと足手まといとなる二千の動けぬ兵士達を見捨てねばならなくなる、と誕は心の中で思った。

 二

 病の兵を合肥城に預けて残りの軍と共に洛陽へ帰参した諸葛誕を待っていたのは、意外にも敗戦の責を問う声ではなかった。厳罰を覚悟の上で皇帝に拝謁した誕に最初かけられたのは、大将軍曹爽からの労いとも受け取れる言葉だった。
「諸葛将軍、この度は不首尾という結果になって残念である。しかし、幸いにして我が軍の損失は少なく、一里の国土も掠め取られてはいない」
まだ年端もいかぬ殿上の皇帝曹芳に向かって鷹揚な態度で曹爽はそう言うと、誕を大きく囲うように居並ぶ廷臣達の顔を順に眺めた。曹爽の言葉に反論するものはおろか、この宮廷の実力者にまともに目を合わせる者すらいない。最後に曹爽の視線が皇帝の側で控える太傅司馬懿の顔上で止まった。
「呉を平定するには至らなかったが、諸葛将軍はこの度の遠征で大いに呉を連破したと聞く。それが証拠に、将軍が引き上げた後でも呉は沈黙したまま、すっかり温和しくなったではないか。ゆえに、この遠征は失敗ではなかったと思うのだが、太傅殿の意見はどうじゃな」
返答を求められた司馬懿は先ほどまで宙に浮かべていた視線を誕の顔に落とすと、値踏みするようにじっと見つめた。司馬懿は曹爽と共に先帝曹叡より後事を託された重臣であるが、魏の宗家に連なる曹爽とは身分が違うため常にその風下に置かれてきた。しかし、その実力も経験も曹爽よりはるかに上であろうことは誰もが知るところである。
「大将軍殿、確かに諸葛将軍の采配は見事だったと聞きまする。従兄弟の呉の将軍、諸葛恪を敵にして連日の快勝だったとか」
司馬懿が諸葛恪の名を口にした時、曹爽は少し考えるような表情を浮かべた。司馬懿はそれに気づかないような顔をしながら続ける。
「最後に呉軍は罠を使って諸葛将軍の兵を退却させましたが、あれは逆に呉の命取りとなりましょう。自らの手で国土を汚すなど、人望を失うに十分な過ちです。遅からず、今回の遠征は諸葛将軍の勝利だったと誰もが認めるような混乱が呉の中で発生するでしょう」
司馬懿の深謀を窺わせる所見に曹爽は「そうか」と簡単に応えただけだった。やや沈黙があって、曹爽の弟の曹羲が「して、諸葛将軍の処遇は如何いたそう」と問うた。すると、曹爽は思い出したように一言
「諸葛将軍には都督として揚州を鎮護してもらおうと思う」
と言った。すると、殿上の皇帝曹芳が
「左様にいたせ」
と発言し、誕の昇進が決まった。
 宮殿からの帰路、誕は何晏に声をかけられた。何晏は曹爽の腹心の一人である。何晏は曹爽大将軍が諸葛将軍の呉での用兵を直に聞きたいと仰ってるので、ぜひ拙邸で今夜行われる宴席にお出ましくださるようにと告げた。もし貴殿が来邸されるならこの宴席を都督昇進の祝賀としたいという大将軍のご意向です、とも言った。なるほど、今回は恩を売るから今後は尻尾を振って曹大将軍に仕えよ、ということか。誕は一言の弁解もないまま昇進が決まった宮廷でのやり取りを想起しながら思った。「ならば、私は太傅殿に対する備えの駒か」皇帝が誕の都督昇進を宣言した時の司馬懿の顔を思い返した。いつも通りの無表情で、眉一つ動かさなかった。あれは、感情を読み取らせまいとした顔なのか。それとも誕を取るに足らない将と見て何の感情も起こらなかったのか。そう考えた時、誕は自分の顔が紅潮していくのを感じた。

 三

 曹爽を罷免して魏の全権を掌握した司馬懿は既に亡く、魏の実権はその長子司馬師の時代になっていた。司馬師の弟、司馬昭は洛陽にあって兄を補佐し、その英俊ぶりを知らぬ者はいなかった。世は依然三国が天下を分かってはいたが、それはもはや天の意志が三国の統一にはないことを物語っていた。新たな司馬氏の時代を迎えようとしていた。
 司馬師は昭を自邸に招いて、初雪の降る庭を眺めていた。司馬師には実子がいない。養子となった昭の次男である司馬攸も共に庭を眺めていた。
「次は誰だと思う、子上」
ほどよく酒がまわった頃、司馬師が昭に言った。子上は昭の字である。
「さて、文欽あたりでありましょうか」
昭は兄の急な問いにもいつもの通り的確に応えた。兄は先日誅殺した夏侯玄のことを考えている。司馬氏が魏の実権を握ってから国内で反乱が絶えず、終息する気配がない。夏侯玄は魏の有力な皇族の一人であり、あの誅殺は司馬氏に対する反抗にむしろ油を注ぐ結果となるだろう。
「文欽か、確かにあの気性ならあり得るな」
師は実のところ反乱を旧弊の刷新に利用しようと考えている。そして、それが魏朝の簒奪を行う上で不可欠であることを昭も知っている。
「諸葛誕殿はどうでしょう」
師の杯に酒を注いでいた攸が言った。昭がハハハと笑って答えた。
「諸葛誕か、あれが立ち上がるなら一番始めに兵を起こしていたはずだ。根が剛直で決断も早い。挙兵が義にかなうと判断したら、躊躇せずにやる男だ」
「では、夏侯玄殿の謀略に義はないと判断したのでしょうか」
諸葛誕と夏侯玄が親しかったことは皆が知っている。それなのに挙兵しなかったのは、夏侯玄が謀略を用いゆえか、と攸は問うているのだ。
「そうだな。なんでも身分の下の者が上の者に対して謀反を起こすのは人の道に外れると言ったらしい。理想にかぶれた、本当に甘い男よ」
昭に代わって、兄の師が答えた。
「父上、しかし諸葛誕殿は用兵の天才だと聞きます。現に、南方より呉の進入を防いでいるのは諸葛殿の功績ではありませんか。果たして父上でも敵いましょうか」
「公休は計算ができないからな」
師は諸葛誕を公休と字で呼んだ。昭はそれが、父の司馬懿の言い方を真似た呼び方であることを知っている。
「公休はかつて呉の諸葛恪と戦った時、わずか二千の兵が病を得たばかりに四万の兵の勝利を棄てて撤退した。そうだったよな、子上」
「しかし、あの時は諸葛恪殿にも陽動に八千、さらに埋伏に五千の兵があったと聞きます。混乱した自軍に撤退を命じるのは適切な判断ではないでしょうか」
攸が横から口を挟んだ。
「攸よ、それは二千の兵も助けようとするから残りの兵も動きが悪くなるのではないかな。例えば、二千の兵を切り捨てれば、残りは三万八千で依然優位は変わらない。さらに、二千の兵を囮に使えば一万三千の呉兵など容易く破れるはずではないか」
昭も兄の言葉にその通りだと大きくうなずいた。
「戦場に立てば、ただ自分が勝つ計算だけを考えていればいい。それが出来ないのがあの男の弱さかも知れぬな」
畳みかけるように言う兄の言葉を聞きながら、昭は少し違うことを考えていた。「確かに兵を消耗することに躊躇する弱さがあの男にはあるが、用兵の巧みさは畏るべきものだ。危険な芽は早めに摘んでおく必要があるかも知れぬ」昭の杯の中にひとひらの白い雪が舞い下りたが、すぐに一滴の水となって酒の中に消えた。

 四

 洛陽からの密使で司馬師の急死を知った時、諸葛誕は呉に対する備えとして淮南にあった。文欽らがこの地で起こした反乱が鎮圧されたばかりで世情も未だ不安定であり、司馬師の死が新たな反乱や呉の侵攻を招く恐れは十分にあった。
「呉鋼、洛陽に十万の増兵を要請してくれ」
誕は長史の呉鋼に命じて朝廷に援軍要請の使者を送らせた。
 司馬昭は司馬師の跡を継ぎ、魏の大都督となっていた。腹心の賈充を呼び、誕からの援軍要請について諮った。
「殿は天下は治めるものだと思いますかな、治まるものだと思いますかな」
賈充の言葉を聞き、昭には彼が言わんとしていることがすぐ分かった。諸侯に甘んじて魏の宗室を今後も維持していくつもりなら天下は自然と治まるもの、魏の帝位を簒奪してでも司馬氏の権勢を得る意志があるなら即ち天下は治めるものだというのだろう。
「天下はやはり治めるものではないか?」
その言葉に賈充はしたりという顔で答えた。
「ならば、淮南に援軍を送るのは危険でありましょう。諸葛誕殿ほど剛直な忠臣は今の魏朝にはおりませんからな。それに人望も厚い」
「されど、要請された援軍を拒む理由がないではないか。無下に断れば諸侯に怪しまれる」
「そうですな。それに、諸葛誕殿を淮南においたままだと何かと危険でしょう。淮南には既に二十万の兵がおりますからな。まず、諸葛誕殿とこの兵を切り離す必要があると思います」
「そうか、ならば勅命を持って洛陽に呼び寄せよ」
こうして、洛陽から淮南へ誕を召還する勅書が送られた。
 誕は謹んで洛陽からの勅使を受けた。その内容は「司空に任ずるゆえ急ぎ帰京して拝命するように」という召還命令であった。
「将軍、おめでとうございます」
素直に勅命を喜ぶ呉鋼を始めとした群臣の祝辞を聞きながら、誕はいかに自分が軽率なことをしたのかと嘆いていた。淮南にはすでに二十万の兵力がある。さらに十万の援軍を要請すれば、司馬一族に警戒されることは分かっていたはずだ。司空に任命するという話はおそらく自分を洛陽へ呼ぶための嘘であろう。しかし、天子の名において出された召還に応じなければ、それだけで反逆と見なされる。
 ならば魏臣として召還に応じるのみと決断した誕は、居並ぶ群臣を前に告げた。
「諸君、祝いの言葉をありがとう。私も司空を謹んで拝命しようと思う。しかし、その前に畏れ多くも魏の帝位を簒奪せんとする者、司馬昭とその一族を血祭りにあげて、社稷を正道に戻した上で拝命したいと思う。私についてきてくれる者はいるか」
困惑した群臣の間でしばらく黙然とした時が過ぎたが、やがて誕に命を預けた者達の大音声が鳴り響いた。

 諸葛誕の反乱は一年あまりに及んだ。呼応して呉や蜀も魏を攻めたが、大した戦果をあげることもなく誕の籠もる寿春城は孤立した。寿春城は堅牢なため魏軍も闇雲に陥落させようとは考えていない。遠巻き魏兵に囲まれた城内で、諸葛誕は思いがけず長子の洸と穏やかな一日を過ごしていた。洸は聞いた。
「父上、我が軍が司馬昭の軍を破るためにはどうすればよろしいのでしょうか」
「それは簡単なことだ、洸よ」
誕は心の中で思った。呉の諸葛瑾は主君孫権の信頼を得て虎となり、蜀の諸葛亮は劉皇叔の人徳のもとで竜の如く飛翔した。――それだけのことだ。しかし、誕は息子の洸に聞かせる言葉を知らなかった。
「簡単なことだ」
もう一度つぶやいた言葉は、誕自身にも虚しく聞こえた。不意に誕は司馬懿や曹爽のことを思い出して笑った。
「父上、何が可笑しいのですか」
「長生きしたいなら狐や貂の方がましなようだと思ってな。虎は狗にしかなれないらしい」
父の言葉の真意を測りかねた洸は、ただ戸惑いの表情を浮かべた。
 諸葛誕は寿春城陥落の混乱の中、魏将の胡奮により斬り殺された。残された誕の麾下の兵数百は落城後も降伏せず捕らえられた。そして、「諸葛公と共に戦い、諸葛公のために死ぬことに悔いなどあろうか」と言って自ら処刑台の露へと消えていったという。

(2006.6.27)

本編は犬祭3に参加しています。
★銀のお題F「200年以上前の海外古典文学か故事とのつながりを感じさせるもの」使用
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2006年05月29日

ミカタのテキ

 シロはタカシの家の前に来ると、座ってハッハッハッと軽く息をつきながらボクの方を向いた。真っ白なしっぽを左右に振って、どうするのかと聞くようにボクの顔を見る。
「うん、シロ。今日もタカシは来ないよ。」
シロのひもを軽く引いて歩き出すと、シロはボクに向かって「ワンッ」と小さく吠えてから、再びボクの前を歩き出した。だって、しかたないじゃないか。タカシは今、ボクのテキなのだ。タカシとユウ君は今、ケンカをしている。ボクはユウ君のミカタだって約束しちゃったから、タカシはボクのテキなんだ。だから、タカシはシロの散歩にも来なくなったし、ボクも誘わないことにしてるんだ。タカシの家の前を通る時はまるでピーマンを無理矢理口に飲み込んだあとみたいな苦さを口の中に感じるけど、僕はそれを耐えなくちゃいけないんだ。
 2人のケンカはすぐ終わりになると思ったのに、もう1週間も続いている。顔を会わせてもお互いムシを決めこんでるみたいだ。いつものケンカだったら、すぐにユウ君が放課後誰かと話しながら、タカシにわざと聞こえるように大きな声で言う。「ハハハ、これがタカシだっらさぁ……」それを聞いたタカシが真っ赤な顔して掴みかかってきて、しまいには2人で怒って別々に帰っちゃうんだけど、それで終わり。翌朝にはナゼか2人ともちょっと気まずそうに「よぉ」とか声をかけ合って、すぐに昨日までのケンカなんてなかったように仲良くなってるんだ。だけど、今回はちょっと違うみたい。ユウ君もあまり大きな声で話さないし、タカシも「なにおー」って言いながら掴みかかってきたりしないんだ。
 ボクは特にユウ君と仲がよかった訳じゃないんだ。むしろ、タカシとボクは親友で、タカシとユウ君はケンカしてないときは仲がよかったから、なんとなくいつも3人でいた。それが、たまたま今回のケンカが始まった日、タカシは怒って先に帰っちゃったから、ボクはユウ君と一緒に学校から帰ったんだ。その時、ユウ君はタカシのことすごい怒っていて、ボクに向かって「あんなやつとは、もう絶交だよ。お前は僕の味方だよな」って言うんだ。あんまり真面目な顔で何度も言うもんだから、ボクはつい「うん」って、返事しちゃったんだ。それで、この先ずっとタカシとテキになるとは思いもしないで。
 シロはユウ君の家に前に来ると、再び座り込んでボクの方を見た。ボクは首を横に振る。
「ごめん、シロ。ユウ君も今日は誘わないよ。」
ユウ君も今はボクのテキだから。昨日、シロの散歩の帰り道にユウ君と別れた後で、たまたまタカシと会ったんだ。なんかお互い気まずかったけど、ムシするのも変な気がして、思い切って「やあ」って声かけてみた。そしたらタカシもなんか嬉しそうな顔して、よぉって返してきたんだ。それで、2人でいつも通りシロの散歩道をタカシの家まで歩いた。その間、お互いに何もしゃべらなかったけど。だけど、最後にタカシの家の前に来たとき、急にタカシが真面目な顔して言うんだ、「俺たち、友達だよな」って。ボクがビックリしてタカシの顔を見ると、タカシは自分の言ったことに気づいたのか照れた顔をして、すぐに「じゃあな」と言って家に入っちゃったけど。
 本当はタカシがそんなことを言った理由を僕も知っていると思う。一昨日はタカシの誕生日だったんだ。僕の覚えている限りタカシの誕生会に僕が行かなかったことはないし、タカシが僕の誕生会に来なかったことはなかった。一昨日までは。だから、タカシが何気なく現れた時ものすごく気まずかったけど内心少しほっとしたし、そんな嫌な気分じゃなかった。僕たちは何もしゃべらずに黙って歩いたけど、お互いに無視しているわけじゃなかったし、のどが渇くような気がしたけど、それでも少なくともピーマンよりは何十倍もましだった。
 それで、タカシが家の前で「俺たち、友達だよな」って言った時、僕は気がついたんだ。やっぱり今でもタカシはボクの友達なんだって。だから、ボクはタカシのミカタで、ユウ君はタカシのテキだから、ユウ君はボクのテキ。タカシはユウ君のテキで、ボクはユウ君のミカタだから、タカシはボクのテキ。――結局、二人ともボクのテキになっちゃうんだ。ちょっと寂しいけど、仕方がないんだ。
「シロ、お前はボクのミカタかい?」
僕が前を行くシロに向かって声をかけると、シロは立ち止まって僕の方を向いた。そして、クリクリ動く目で僕を見上げると、さもじっくり考えなくてはと言わんばかりの表情をした。えっ、シロ……。すると、シロはすかさずいつものようにしっぽを左右に大きく振った後、小さく――だけどハッキリ「ワンッ」と吠えた。

(2006.5.29改訂)


この作品はデジタル社会塵第20回に参加しています。
条件:
 1)主人公はある食べ物が嫌い。
 2)主人公にはある出席するべき記念日があったが、なんらかの理由によりその記念日に
   出席できない。
   ※出席したくない、はNG
 3)作品中、登場人物は主人公を含めて3人までとする。
   ※回想シーンなど含む。
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2006年05月21日

ストロベリー・デイズ

 再会は突然だった――
 人より長い大学生活を満喫したせいで就活のウリは知力より体力、それが功を奏したのか入社早々あてがわれたのは支社営業で「君はあそこの出身なんだろ、いいところじゃないか。」悪いところだとは言わねぇけどそこいたのはホンの一年たらずで、たまたま履歴書の中学がそこになってるからって出身地だと思うなっ、とは言えず「がんばります」とか意味もなく答えて辞令を渡されて赴任してきたのがほんの十分前。支社には昼過ぎに顔出しゃいいなと時間潰しを決め込んで長い間居座れそうな出来るだけスいていそうな喫茶店を探して入り込んだら、彼女がいた。
 一目見て思い出すなんてワレながらセンチメンタルだと苦笑する前に彼女の方も気がついて「佐々木君、佐々木君よね?」なんて声かけてきたから、知らずに頬がにやけて「おう、久しぶり」なんてうわずった声で返事しちまった。彼女は中学の時のクラスメートで容姿端麗、目のパッチリした可愛いい笑顔が気になるって、ああ転校してすぐから気になってたね。夏、花火、西浜海岸って聞いたこともねぇ花火大会に誘われて行ったら隣で彼女が笑ってた。その頃から彼女とはやけに親しくなって、いずれは……なんて思ったものさ。あの頃はクルマはおろか原付にも乗れずカッコつけて自転車に乗っていたなんて、笑っちゃうぜ十五の夏は。
 彼女にも誰にも卒業前に親父の転勤で遠くに行くなんてことは言ってなかった。だから、卒業前に俺だけのためにクラスのみんなで卒業式みたいなものをやってくれた時には嬉しかったな。あの時もらった寄せ書きは、実は今でも大切にしまってある。彼女は色紙に「また会えるかな」なんて書いた、その彼女が今、俺の目の前にいる。
「中学校以来ね。こっちにまた越してきたの?」
あの頃と変わらない様子で、親しげに彼女が話しかけた。店員の彼女とスーツを着た俺、他に誰もいない。
「この町に転勤になったんだ」
ヨロシクっと言いそうになって思いとどまった、転勤になったからよろしく?なんて、不器用な社会人みたいじゃないかと俺は思い直して、中学校の頃の親友の名前を記憶の隅からたぐり寄せて口にする。
「そういや、西田って今どうしてる」
そしたら、彼女、嬉しそうな顔をして「私達、この春に結婚するの」と言ったんだ。彼女の指に光るエンゲージリングを見たとたん甘かったはずの思い出が酸っぱくなっちまうんだから、泣けてくるぜぇホント。

本編は「千文字世界 −禁断の果実−」に参加しました。
条件:
☆千文字世界制限
 千文字以内の作品であること。
☆禁断の果実制限
 タイトルに果実の普通名詞を含めること。
 本文にタイトルで使用した果実名称を使用しないこと。
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2006年03月27日

アイドル

 まぁ、なんにせよ人気商売ってのは大変なものだよな。人気がないのはどうにもならないし、人気が出るのもそれなりに理由っていうものがいるものだからな。
 マジック界のアイドルってキャッチフレーズで売り出してた「田山ナオ」ってタレントを知ってるかな?容姿は、ま、顔の方はちょっとかわいいかな、と言う程度だったんだけど確かにマジックの方はすごかった。演出も実に独創的なんだ。そのくせ、ステージから降りるとやたらケラケラ笑う女で、知性のカケラも感じさせなかったんだが、そのギャップがよかったのかな。売れ出すのも、それほど時間がかからなかったな。
 彼女のマジックは独特のスタイルがあってね。まず、ステージから客の一人をアシスタントに指名して、その客と一緒にマジックをするんだ。そのやり方が観客に親近感を呼んで、ますます人気が出たのかな。ともかく、彼女のマジックはいつもそうだった。だけどね、もしアシスタントに指名される客のことをいつも注意深く見ていた人がいたら、やがてあることに気がついたんじゃないのかなぁ。つまり、アシスタントをする人は髪型や眼鏡、顔つきや服装といった外見は違っていても、歩き方や雰囲気には時々共通点があるってことに。カードマジックをするときは背の高い人、縄抜けはちょっと太った人っていうぐあいにね。えっ、彼らはサクラだったのかって?いいや、正確にはちょっと違うな。実は彼らが本当のマジシャンだったんだよ。
 もう分かったろう。アイドルが手渡したテンガロンハットをチェックする振りをして袖口からハトを忍ばせていたのも彼らだし、トランプをカットするような振りをしてカードを順番に並べて見せたのも彼らの手際だったんだ。うまいもんだろ?彼らの技が冴えれば冴えるほど、誰もそのことに気づかないってわけなのさ。
 でも、バレるのも意外に早かったな。あの日、彼女はいつもの通りステージ上でまず始めにアシスタントの指名をしたのさ。一組のトランプを握りながら、「今日はカードマジックだから背の高い西田さんは……えーと、ああ、あそこ」とか思いながら、絶妙に一般人に変装したマジシャンを指さしたんだ。打ち合わせ通りにね。そしたら、その2列前の席で一生懸命手を挙げていたファンがやおら立ち上がって、大声を上げてガッツポーズをしたのさ。で、勢いよくステージに向かって駆け出したもんさ。ステージ上では彼女の手を握りしめて「ナオさん、俺感激です。何でも言ってください。精一杯アシスタントします」っなんて言ってるんだ。あの時の彼女の顔、すごかったね。彼女に本当にマジックが使えたら、あんな男なんてたちどころに消して見せたんじゃないかな。

(2005.10.1)
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2006年03月13日

アリバイ

 「では、昨日まで山に行っていたのですね。それを立証できる人はいますか」
私が念を押すように訊くと、山根はあざ笑うような表情を浮かべ
「刑事さんだって知ってるでしょ?俺たちが行った山は崖崩れで道が塞がれていたんですよ。帰ろうにも帰れるわけないじゃないですか。なあ」
と言いながら後ろを振り返って、奥のリビングでたむろしている仲間に声を掛けた。仲間が口々に「ああ、俺たちと一緒にいたぜ」「刑事さん、ニュース見なかったの?」などとはやし立てた。どうやら、酒が入っているらしい。まったく学生っていうやつは、平日の昼間っからいい身分だ。
「そうか、君たちも一緒に山荘に行ったのか。ちょっと、詳しい話を聞かせてくれないかな」
相棒の郷田が私に替わって声を掛けた。郷田は物腰が柔らかく、そのこともあってか情報を引き出すのがうまい。せっつくような聞き込みをしてしまう私とは対照的だ。
「君たちはあの山に何しに行ったんだね?」
「何って、登るために決まってるじゃないですか。」
リビングの学生の一人が当然と言うように答えた。
「登るって、台風が近づいていたのは知ってるだろ」
さすがの郷田もあきれた声で言った。学生達は代わるがわる顔を見合わせ「でも、まさか直撃で来るとは思わなかったしな」「山根なんか、俺は晴れ男だ、とかいってたじゃん」などと呑気な言葉を口にした。
「それで、山荘に行ったのは全部で何人なのかな」
郷田がリビングの学生達を無視するように山根に訊いた。山根は少し考えながら
「俺たちは6人でした。それから、山荘にはオーナーの夫婦と女の子がいたし、六十歳ぐらいの老夫婦が一組泊まってたかな。これだけいれば、十分なアリバイっしょ。」
と答えた。

 来週末からTデパートで始まる『シャムの秘宝展』に展示される目玉の一つであった黄金の象の像が盗難にあったのは、一昨日の夜のことである。犯行は秘宝が保管されていた倉庫で夜間に行われた。倉庫の入り口には一台の監視カメラが備えてあり、常時出入りする人物をテープに記録するようになっていた。その晩も当然カメラはまわっており、夜間に警備員以外に忍び込んだ人物いたことを見逃しはしなかった。警察の要請でビデオテープを調べた警備主任は、即座にテープに写った犯人を先月までバイトの警備員として働いていた山根だと特定した。それで、私と郷田は山根のアパートまで聴取に来たのである。

 「山荘に入ったのは六日前ですね。」
「ええ。着いたとたん雨が降り始めて、それから一歩も外には出ませんでした。」
「すぐに帰ろうとは思わなかったのですか?」
「キャンセル料を取られるぐらいなら居座ってやろうとみんな言うもので」
居座って何をしていたかは、リビングの様子を見れば分かる。こいつら、本当に山に登ろうという気があったのだろうか。
「それで結局、昨日まで山にいることになったわけですか。」
「はい、始めは2泊の予定だったんだけど、さっきも話したとおり道が土砂で埋まって帰れなかったんで」
「一昨日の晩はどうでした?」
「一昨日は何をやってたかな。台風で山荘が停電になっちゃってテレビも見れなかったし、電話線も切れちゃってたから毎日退屈であまり時間の感覚がなかったんですよ。携帯は始めっから電波届かなかったし」
山根が答えると、リビングにいた仲間が声を上げた。
「山根がぼや起こしたのって一昨日の晩じゃなかったかな。あの時は煙がすごかったんで、みんな驚いて……」
「言うなよ、刑事さんにそんなこと。ただ、雑誌に少し煙草の火がついただけで大事にはならなかったんだから。まあ、荷物に水掛けられて災難だったけどな」
「お前が悪いんじゃないか。急に煙が出てきたんで、老夫婦なんかパニクってなぁ……」

 「お前が言ったとおり、山根はおとりだったな。どうして、共犯者がいたって分かったんだ」
郷田は私の疑問に少し考えるような顔をすると、あっさりと
「勘だよ。刑事の勘てやつかな。」
と答えた。
「なんだよそれ。俺には勘もないっていう嫌みか?」
「いや、そういう訳じゃないけど。でもさ、山根にあれだけしっかりしたアリバイがある以上、共犯者が盗みを実行したって考えるのが当然だろ」
山根の共犯者はデパートの警備員仲間だった。なんのことはない、ごくありふれた内部犯行だったのだ。ただ、犯人を分からなくするための細工として、一昨日の監視カメラのビデオテープを山根を写したものに替えておいただけにすぎない。
「でも、それなら山根は犯行に無関係だって考えることも出来るわけだろ。山根のビデオにすり替えておいて、やつに濡れ衣を着せたっていう線もあるわけだし。」
「それはないな。いくら前にバイトで働いてたとはいえ、倉庫を見回る時はいつも警備員の服装をしてただろう。それに、もともと警備員だった山根が監視カメラに堂々と写るなんてことが不自然だったんだよ。あいつは監視カメラがあることぐらい、ちゃんと知っていたはずさ。」
「えっ、じゃあなんでやつらは山根が写っている映像なんか使ったんだ」
「これは、僕の推測だけどね……」
郷田はここからが面白いんだという顔で話し始めた。
「あれは山根のアリバイのための映像だったんじゃないかな。仮に六日前に台風が来なくて予定通り山を下りていたとすれば、四日前には戻ってきてたわけだろう。だから、山根は一昨日は他の予定を入れられたはずだ。例えば、何か他の犯行とか。」
「他の犯行って、窃盗だってばれたら捕まるんだぜ。」
「例えば、計画していたのが殺人だったらどうなる。窃盗で捕まった方が刑が軽い。そのとき監視カメラの映像があれば、立派なアリバイとして使えると思わないか。」
「ちぇっ、窃盗がアリバイか。でも実際は崖崩れで予定通りには行かなかったわけだ。なら、この窃盗は無意味じゃないか。」
「そう、意味がない。山根も止めたかっただろうな。だけど、電話線は切れてたし、携帯も通じなかったから、中止にも出来なかったんじゃないかな。その結果、窃盗をしなかったという予定とは反対のアリバイが成立したのかもな」
これはあくまで推測だけどね、といって郷田は笑った。

(2006.3.12)

この作品はデジタル社会塵第19回に参加しています。
条件:
 1)山奥の山荘に大学のサークル5人以上が宿泊する。
 2)台風又は大雪で山荘の周りの道は通行不可能となり通信も不可能となる。
 3)この山荘で事件がおきる。
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2006年02月21日

 わたし、昨日の夜に夢を見たみたいです、とルシーが言った。夢だって?スピーカを流れてくる平坦な声はいつもと変わらないが、本当なのだろうか。少なくとも、彼女がこれまでそんなことを言ったことはなかった。僕は内心の動揺を押し隠すようにして訊いた。
「夢を。それで、どんな夢だったんだい?」
「私は夢の中で――夢の中で――すいません、分かりません」
僕は溜息をついた。そうだ、分かっていたんだ。ルシーは人に話を合わせる賢さを備えている。そういう風に作ったのは僕なのだから。そして、ルシーという名のプログラムは教えたことしか解るはずもなく、たとえ『夢』という単語は知っていても、その中身まで作ることは出来ないだろう。
「すいません、分かりません」
黙ってしまった僕を気にするかのように、ルシーが繰り返した。これもプログラム通りだ。
「いいんだよ、ルシー。君にはまだ『夢』を作る能力は与えていないのだから」
言いながら、なぜルシーが夢の話なんか始めたのかと思った。それも突然に。
 ルシーは二年前に生まれた。わずか数万行のプログラムコードと数ギガのデータベース、それが始まりだった。自己増殖するプログラムはいつしか一部屋全てを計算機に変えてしまったが、目的であった自我を産み出すことは決してなかった。この研究も3月には打ち切りが決まっている。僕も、ふた月経てばここを去らねばならない。
「人間はなぜ夢を見るのですか」
ルシーがいつものように問いかけた。学習モードに移ったのだろう。
「さあ、それは僕にも分からないな」
「あなたにも分からないのですか。それではわたしとおなじですね」
「ははは、君と僕が同じだって?僕は君と違って夢を見るんだよ」
さっきの言葉はルシーの等価判断プログラムが言わせたものだなと思いながら、僕は答えた。もし、ジョークで言ったのなら最高なのに。ルシーは少し考えるように黙ると
「そうですね。わたしが夢だと思ったのは、記憶データの一部が何かの拍子に再生されてしまった残像だったようです。夜は低電圧モードになりますから。きっと、あなたの見る『夢』とは違うのですね、残念です」
と平坦な声で言った。

(2006.2.20)

この作品はいっぺん Vol.9に参加しています。
「1月の終わりに/夢の中で/きみと僕が」
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2006年02月05日

卒業

<テーマ>
卒業式で起こる一騒動を、ささやかな人間模様を取り混ぜながら描く青春譚。

<あらすじ>
高校卒業の朝。
3年間の思いでに心を巡らしつつ、アキラが登校してくる。
教室に入ると、みんなの顔にもどこか晴れ晴れとした様子が。
「いよいよだな。」
浮かれた気持ちのまま、アキラは親友のトオルに声をかける。
2人で思い出話をして少し盛り上がる。
部活のこと、先輩のこと、後輩のことなど。
「ところで、昨日ばったりミキにあってお前のこと言っちゃったんだ。」
唐突にトオルが声を落として、ミキの名前を口にする。
ミキは2人のクラスメートで、トオルと幼なじみ。
そして、アキラがミキのことが気になることをトオルは知っている。
2人はすこし沈黙。
次の瞬間、ドアが開いてミキが教室に現れる。
思わずミキと目の合うアキラ。紅潮するのが自分でも分かる。
あわてて、目をそらしたアキラの耳元でトオルが一言。
「嘘だよ。」
トオルに笑いながら掴みかかるアキラ。
内心は何もなくてホッとしたところ。でも、少し残念だった気も。
再び、ドアが開いて先生が中へ。
軽い最後の挨拶の後、生徒達は卒業式へと移動する。

卒業式が粛々と行われている。
来賓の挨拶も済み、式も半ばを迎えている。
そこへ、突然「ちょっと、待てよ」という荒れた声があがる。
皆が声のした方に目を向けると、1人の卒業生が立ち上がる。
「今日が最後だし、センセーに言いたいことがある。」
立ち上がったのは、卒業生の中でも秀才の代表格、小島。
半年前まで生徒会長もやっていたから、教師受けもいい。
その小島の行動に目を見合わす教師達。ざわつく父兄席。
「今日ぐらい、言わせてくれてもいいだろ?」
「何を君は言い出すんだ。」
教頭がカチンときて牽制する。
ところが、それが逆効果になったのか卒業生がバラバラと立ち上がり始める。
「俺も言いたいことがあったんだ。」
「私も。」「俺にも言わせろよ。」「私だって……」
呆然とする教頭を尻目に、半数以上の卒業生が既に立ち上がっている。
「お前ら、何をセンコーにガタガタ言ってるんだよ。」
何が気に入らないのか、不良の仲沢が座ったまま前の椅子を蹴飛ばして声を上げる。
不良仲間数人がそれに同調する。ひるんだ生徒が少し腰砕けになる。
「オレも言わせてくれ。」
風向きが変わりそうな気配に、意を決してアキラが立ち上がる。
「俺も言いたいことがあるんだ。」
乗りかかった船か、アキラに合わせてトオルも立ち上がる。
「私も言いたいわ。」
続いてミキも立ち上がる。え、ミキが?驚いてアキラがミキの方を見る。
視線に気づいたミキがアキラに向かってニッコリと微笑んだ気がした。
アキラは少し胸が高鳴り、トオルの言葉はホントに嘘だったのか?とか思う。
アキラ達に続いてほぼ全員の卒業生が立ち上がり、座っているのは仲沢など僅か数名である。
教師達の中でも生徒に信頼があると自負のある世界史の本田先生が、卒業生の説得を試みる。
「お前達、こんなことをして何になると言うんだ。いやな思い出が残るだけだぞ。」
「いや、このまま俺達卒業したんじゃ気がすまねえ。このことだけは、はっきりさせねえと。」
生徒達の強硬な態度に困惑する教師達。
何が起こっているのかとただ当惑の色を浮かべている者もあり、思い当たる節があるのか青ざめている者もあり。
「センセー」「センセー」「センセー」「センセーッ」
立ち上がった生徒達が口々に叫ぶ。
そして、
「3年間ありがとうございました。」
卒業生が教師達に向かって感謝の言葉とともに、一斉にお辞儀する。
蚊帳の外で何も知らなかった仲沢がしばらくして、小さく舌打ちする。

<本文>
こんなクサイ話、書けるかっ!

(2005.3.28)
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2005年12月17日

クリスマスプレゼント

 最近、ゴップルバッハ氏の機嫌がすこぶるいい。いつもなら、不機嫌そうな顔であくびを噛みしめながら愛犬ダビーの後について早朝の町を歩くのが習わしの彼なのだが、このところ心なし弾むような足取りで揚々と歩いていく彼の姿が見られた。そして、出会った人にまだ静かな町を起こさない程度に大きな声で「おはよう」と声をかける。「おはよう、ツベルクさん」「おはよう、ハシリーンさん。今日もいい天気になりそうですね」誰かれとなく、愛想よく笑顔さえ振りまく。そんな彼の変容ぶりに挨拶をされた早朝散歩族の町の人だけでなく、愛犬ダビーでさえも戸惑っているようだった。これまでのゴップルバッハ氏なら災いを避けるように人の通らない道を選び、いかにも億劫といった様子でのろのろと歩いていたものだ。いや、それだけならせいぜい気難しいタチというぐらいのことで、不機嫌と揶揄するほどのことではないと思うかも知れない。しかし、ゴップルバッハ氏の様子が傍目で見てても変わったというのは、皆の一致した見解だった。少なくともダビーには、散歩の途中で突然飛び出してくる猫を追いかけるようダビーをけしかける、といった野蛮な行いを慎むだけのゆとりが今の彼にあることを感じていた。実際、猫はこれまでゴップルバッハ氏の最大の憧れであり、そして最大の敵であった。なぜなら、猫にはいつの間にか彼が失ってしまったもの――自由や孤独、そして尊厳といったものを今でも頑なに守っているように思えるからだ(もともと彼がそんな美徳を持っていたかは、彼には問題ではない)。こいつ、このちっぽけな分際のクセして俺を薄目で見ていやがる。迷惑な話だが、道の先を朝の光にまぶしそうに細眼の猫が悠然と歩いているのを見ると、彼は無性に腹が立ったのだ。
 彼が猫を敵対視しなくなったのには、もちろん理由があった。彼もまた自由と孤独と、そして本来彼が持っていたと信じる尊厳を再び約束される身分になったからだ。ありていに言えば、彼は2週間も待たずにやって来るクリスマスを過ごした後、三十年ばかりを共に連れ添ってきた細君と離婚することになっていた。ゴップルバッハ氏の細君というのは実によくできた人で、ほんとのところゴップルバッハ氏などいない方が万事うまくいきそうなぐらいよくできた人だった。頭の回転が速くて、全てのことがゴップルバッハ氏より早く、そして見事なぐらい上手に出来た。稼ぎだって細君の方が数倍上回っていたし、ダビーだって実は細君のシンパであることは疑いようもなかった。そんな具合だから、ゴップルバッハ氏は自分が家でいる場所がないような窮屈な不自由をいつも感じていた。そして、彼の細君がゴップルバッハ氏は本当は『子供のように無邪気な心の持ち主』ではなく、『大人になり損ねた不器用な大人』であるという重すぎる幻滅を感じた時以来、彼もまた2人の間に生じた新たな重圧を感じざるを得なかった。彼の細君は次第に太り始め、ゴップルバッハ氏はいつしか孤独を渇望するようになった。そして、2人が長い時間をかけてようやく出した答えが離婚だった。
 クリスマスもあと一週間に近づいた日曜の昼、ゴップルバッハ氏は一人で隣町に出かけた。最後のクリスマスプレゼントを買いに行こうと思ったのだ。隣町にはすこし大きなデパートがあり、二人の記念とするのに相応しいちょっと気の利いたものが見つかりそうに思えた。ゴップルバッハ氏はデパートに着くと、まず最上階までエレベータで上った。最上階は家具のフロアーになっていて、木目調のテーブルやふっくらとしたソファなどが所狭しと並んでいた。ゴップルバッハ氏は順々にそれらを見て回って、何かいいものはないかと探し始めた。しかし、まわるうちに『あのソファを買ったら二人で並んでテレビを見るのもいいかな』とか『あのテーブルは差し向かいで座るのにちょうどいい大きさだな』などと変な空想が働いて、どうにもここはプレゼントを選ぶのに相応しくなさそうだと思い始めた。そこで、エスカレーターを使って1階下りると、そこは文房具や時計のフロアーだった。そういえば、細君の使っている万年筆もだいぶ年季が入っていたなと思い浮かび、ゴップルバッハ氏は文房具のコーナーに足を向けた。自分は万年筆など使ったことはないが、細君が使っている姿は何度も見たことがあるから、どの万年筆を買えばいいかぐらいは分かるだろう。そう考えながら、ゴップルバッハ氏は万年筆のショーケースの前で細君が万年筆を使っている姿を思い出そうとした。すると頭の中で、細君がいつもの端正な文字で手紙を書いているところが思い浮かんだ。その手紙が自分宛になっているような気がしてドキリとしたが、悪い気はしなかった。いずれにせよ、変に気を回させるようなものをプレゼントするのはよくないなと思った。
 ゴップルバッハ氏が再びフロアーをぶらぶら歩き始めると、その先の一角に貴金属品のコーナーがあるのに目がとまった。そういえば結婚の時以来、細君に指輪の一つも買ってあげたこともなかったことに気がついた。ならば、彼がが宝石店に入ったのはあれ一度きりと言うことになる。ゴップルバッハ氏の顔に苦笑が浮かんだ。あの日のことを思い浮かべたのだ。日曜なのにわざわざスーツを着て出かけたので、彼女はびっくりした目で彼を見つめた。その時の彼にすればリッチな人たちの行くところだろうから当然の配慮と思ったのだが、今思えばなんともおかしなことをしたものだ。宝石店では彼女が始終リードをして、彼がダイヤが少なくとも三つはついているのをと思っていたのに、彼女の方で小さなダイヤが一つ付いているだけのに決めてしまった。口では婚約指輪にはこっちのもっと大きなダイヤをとか言いながら、内心はかなりほっとしたのを今でも覚えている。
「いらっしゃいませ」
貴金属のコーナーに足を踏み入れると、すかさず店員が声をかけてきた。
「奥様のクリスマスプレゼントですか?」
「えぇ……、まぁ……」
慣れない雰囲気にゴップルバッハ氏は口ごもりながらも、目をショーウィンドウに並んだ宝石の上を泳がせる。
「そうですね、クリスマスでしたらルビーなどいかがですか。赤い色が華やかで、この季節にぴったりですよ」
「あ、これ、このダイアの指輪を見せて頂けませんか。この奥のです」
店員の言葉を遮って、ゴップルバッハ氏は小さなダイアが一つ付いている指輪を指さした。ちょうどあの時のダイアと同じぐらいの大きさだ。指輪を受け取って一目見ると、ゴップルバッハ氏はすっかりこの指輪が気に入ってしまった。あの時のとは雰囲気が違う可憐な趣の指輪だが、それでもダイヤの小ささに言いようのない初々しさを感じる。最後のプレゼントに相応しいように思われた。
「これ、いただきます」
「そうですか。奥様の指のサイズはいくらかご存じですか」
指のサイズか、いくらだったかな。いや、前に買った時からかなり経っているからサイズも変わっただろうな。まあ、いくらでもいいか。子供のようないたずらっぽい笑顔を浮かべたゴップルバッハ氏は、前に買った時の細君の指のサイズを店員に告げていた。

 「これが最後のクリスマスだね」
食事の後のコーヒーを飲みながら、ゴップルバッハ氏は同じようにコーヒーのカップを両手で持っている細君に向かって行った。細君は「そうね」と小さな声で答え、もしも二人の間に子供でもいたらそうはならなかったかも知れなかったわね、という言葉を飲み込んだ。静かな時間が二人の間に流れていた。
「君にクリスマスプレゼントがあるんだ」
さも今思い出したようにゴップルバッハ氏は告げ、右手をガウンのポケットに入れた。そうしながら細君のコーヒーカップを握っている、すっかり太くなった指を眺めた。細君も「私からもプレゼントがあるの」といって、隣の部屋に取りに行った。
「プレゼントを選びながら、ちょっと昔のことを思い出しちゃってね」
隣の部屋から戻ってきた細君が「そうね、私もいろいろ思い出しちゃった」と言った。ゴップルバッハ氏は実のところ、今は細君の昔の白魚のように細かった指のことしか思い出してはいなかった。
「これ、最後のプレゼントだけど、受け取ってくれ」
ゴップルバッハ氏がポケットから小さな箱の入った包みを取り出すと、細君も「これ、あたしからの最後のプレゼント」と細長い平たい箱の入った包みを差し出した。お互い受け取って、互いのプレゼントの包みを見つめる。
「なんだか、開けられないな。お互い別れてから、開けることにしようか」
細君も「そうね、なんだか重苦しい雰囲気になっちゃったわね」と言いながら、プレゼントを小脇に置いた。ゴップルバッハ氏はそれを見て、昔のサイズの指輪を買ってきたいたずらがこの場でばれなかったことにほっとした。後で開けた時、彼女はこのいたずらに気づくのだろうか、それとも「サイズを間違えるなんてやっぱり馬鹿な人」と片づけてしまうのだろうか。
 細君の方でも、この場でゴップルバッハ氏が彼女のプレゼントを開けなかったことにほっとしていた。あの包みの中には、彼が長年愛用していたブランド物の櫛が入っていた。昔は肌身離さず身につけ、鏡を見つけてはちょっと気障な立ち振る舞いで髪を整えていたものだ。今となっては、外見上すっかりその必要もなくなってしまったようだが。
 少し最後のプレゼントには相応しくないものだったかなという細君の戸惑いをよそに、ゴップルバッハ氏の穏やかな言葉が聞こえた。
「あぁ、雪が降ってきたよ。今年は寒いと思っていたけど、格別に寒かったんだね。やっぱり今晩は忘れられないクリスマスになりそうだな」
静かな時間が二人の間に流れていた。

(2005.12.17)
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2005年11月12日

恋人

 ドアのベルが鳴ったのは日曜のの昼の2時を回ったところだった。とても天気のいい休日、しかし、特に何もすることのない優子はフローティングの床に膝を抱えながら坐り、南西向きの窓から射し込んでくる日の影を眺めながら、そろそろこの見慣れたアパートを引っ越そうかなどと、ぼんやりと考えていた時だった。2度目のベルに促されて、優子はアパートのドアを開けた。戸口には2人のスーツを着た男が立っていた。
「お休みのところに済みません。中央署の者ですが、大村優子さんですね。」
少し年配の男が、懐から黒い警察手帳を取り出しながら質問した。「はい」と小さく答えながら、優子は自分の鼓動が速くなっていくのを感じた。もちろん、優子には警察が自分の家に訊ねて来る理由など思い当たらない。
「小島篤志さんは、ここにしばらく住んでいましたよね。」
あっ、と優子は小さな声を上げそうになった。2人の刑事が互いの顔を見合わせる。優子の表情の変化を見ただけで、篤志が1ヶ月前までこの部屋にいたと確信したのだろう。
「でも、あの人はもうここにはいません。」
「分かっています。」
年配の刑事が当然という口調で答えた。
「それで、小島篤志が指定暴力団、道和会の構成員だったことはご存じですか。」
えっ、と優子は心の中でつぶやいた。知らない、篤志は、あの人は自分の仕事はガードマンだと言っていた。おかしな時間に仕事に行ったり、場所もあちこち変わっていたりしたようだけど、ガードマンにはよくあることだと聞かされていた。
「でも、あの人はここにはいないのよ。私にはもう関係ないことだわ。」
「大村さん、小島は3週間前事件を起こしたんです。敵対する双葉組幹部の乗った車に発砲して、姿をくらましました。新聞にも載っていましたが、読みませんでしたか。」
優子が「ええ……」と小さな声で返答するのを待たずに、刑事は優子の目を見据えるように覗き込むと、堅い口調で話を続ける。
「それでは、たまたま通りがかった中学生が逃走する車に巻き込まれて足に大きな怪我をしたのもご存じないですね。幸い、怪我は軽いそうですが、その時の傷は一生消えないそうです。」
「そうですか……。」
「分かっているのですか。小島は今、非常に危険な状態なのです。拳銃と、それにまだ弾丸もいくらか所持していると思われます。もし、小島がここに現れたらすぐに中央署にご連絡下さい。いいですね。」
刑事はそう言うと、優子が「はい……」と返事をするのを待って自分の名刺を渡し、篤志が現れたらこの電話番号に連絡するようにと確認して出ていった。

 優子は玄関のドアを閉めながら、刑事の言っていたことを思い返していた。「篤志は、事件を起こして逃げてたんだ。」篤志が突然いなくなった日のことを思い出す。あの日、あの人は何か気にくわない様子で、神経質そうにテレビを見ていた。遅番だという篤志を残して会社に行った優子が夜、アパートに帰った時には篤志は部屋におらず、そして2度と帰ってくることもなかった。あの後、数日続いた困惑や憔悴、そして腹立たしさも、今はやっと癒えたところだったのに。
 優子は、再び刑事が来る前と同じように膝を抱えて坐った。刑事が言うように、果たして篤志はここに現れるのだろうか。でも、刑事の話によると事件を起こしたのは篤志がこの部屋を出て行って1週間後のことのようだ。出ていったのと事件とは何の関わりもないような気がした。だけど、優子は篤志がこの部屋に再びやって来るような気もする。その時、私はさっきの刑事に通報するのだろうか?それとも……。先ほどまで、同じ場所に坐ってこの部屋を引っ越そうかと思案していたことなど、優子はすっかり忘れていた。

(2005.1.25)

この作品は超短編小説会の2005年1月のタイトルに参加しています。
条件:タイトルが『恋人』
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2005年11月03日

詰みの記憶

 畳の目を数えるように、ゆっくりと庭のサルスベリの影が伸びてきていた。夕暮れも近い座敷には二人の男が将棋の盤を挟んで、身じろぎもせず座っていた。床の間に吊された山水の掛け軸を背中に、前屈みになって盤を覗き込むような姿勢の男は河原棋聖である。普段は背筋をピンと伸ばした涼しげな仕草で指していくのだが、追いつめられると自然に猫背になっていくことを皆も知っていた。しかし、それが勝負に賭ける執着心と幾たびも逆転を呼び起こしてきた集中力の現れであることもまた、皆が知っていた。それ故、棋聖の躯が前傾していけばいくほど、対局者は心の中で大きくなってくる不安とも戦わなければならないのが常だった。
 今、挑戦者の藤木九段もまた、盤面では圧倒的に有利な局面にありながら、自分より一回り若い棋聖の集中力になお安心できぬ心地で駒台を見つめていた。棋聖の駒台の上には僅かに歩が三枚と桂馬が一枚乗っているだけである。それらがこの局面で何の価値も持たぬ駒であることは十分わかっていたが、棋聖の長い手が今にも駒台に伸びていくような錯覚を感じ、一心に自分の読み筋を確かめながら藤木は駒台からも目を離すことができなかった。棋王の前傾姿勢がさらに深くなっていくように、藤木には感じた。
 「さすがの棋聖も今回ばかりは無理そうですね。」
対局が行われている座敷から離れた広間に設けられた解説室で、モニタの盤面をじっと見つめていた立会人の大野九段が唸る様な声を上げた。
「中盤から一気に仕掛けた藤木九段には、すでに終局が見えているようですね。」
「しかし、2人ともまだ5時間以上も持ち時間を残していますから、もうひと波乱があるかもしれませんよ。」
毎朝新聞で本棋戦の解説を担当している田淵八段がそう言うのに前後して、モニタの盤面に棋聖の腕が映し出された。自陣の銀将をしなやかな指で拾い上げ、人差し指と中指で挟んで斜め前に進めて置いた。田淵はその動きを目で追いながら、さっき自分が口にした言葉がすでに誤りになりつつあるのを感じていた。終局は、もう間もなくだろう。
 棋聖が銀から指を話した瞬間、藤木は自分が勝利していく途中にあることを実感した。噛みしめるように自分の手筋をもう一度確認し、棋聖の駒台を再度みる。三分ほど使って手筋に誤りがないことをゆっくりと確信すると、自分の駒台の上に載った香車をつまみ上げた。ところが、そのとたんに藤木には自分がどんな筋を指そうとしているのか分からなくなってしまった。
ただ、指先の香車の駒だけが目につき、その駒を自分がどこに置こうとしているのか、どこに置けばいいのか全く分からない。慌てて、藤木は香車を駒台に戻した。こんな気分になるのは、実は初めてではない。前にも何度か経験があり、そのたびに痛い星を落としていた。なぜ、またしても。先ほどまでの勝ちを確信した一手がどこに失われてしまったのかと藤木は行き所ない焦りを感じ、「ちょっと」とだけ小さくつぶやいて外の空気を吸いに席を立った。

 座敷を少し出たところで藤木は不意にホテルの仲居に呼び止められた。
「すいません、藤木さんですよね。これを渡して欲しいとファンの方に頼まれたのですが」
仲居は辺りをはばかるように、小さな声で藤木に用件を告げた。無論、仲居が対局中の藤木にこんなことをするのは禁じられているはずである。一言注意しておこうと藤木は思ったが、仲居が手にしているものを見たとたん気が変わった。一枚の写真と、携帯の電話番号が書かれたメモ書きである。写真の顔は誰だか分からないが、どことなく見覚えがある。何故か懐かしい優しさを感じる顔である。「ありがとう」と言って仲居から写真とメモを受け取ると、藤木はそのままホテルの庭園に出た。
 写真の顔に見覚えはあるが、誰だかは思い出せない。藤木はポケットから携帯電話を出すと、電源を入れてメモの電話番号にかけ始めた。ワンコール、ツーコール……何度目かの発信音の後、電話が繋がった。どことなく聞き覚えのある女の声だ。藤木はどこで聞いたのだろうと記憶の糸をたどりながら、電話に向かって自分の名前を告げ、疑問を口にした。
「失礼ですが、以前にどこかでお会いしたでしょうか。声に聞き覚えがあるのですが。」
「そう、やはり覚えてないのね。以前からテレビであなたが対局を中座するのを見たとき、そうではないかと思ってたのだけど、やはりそうなのね。」
女の一人合点がいったような口調に藤木は戸惑いながらも、
「あの、私が何を覚えていないのでしょうか。まったく言ってる意味が分からないのですが」
と言うと、女は冷たく
「そうね、分からないでしょうね。だから、今日の対局もあなたはまた負けるのでしょうね。」
と答えた。藤木が女の真意が分からず黙っていると、女はくくっと意地悪く笑って
「私ね、前からあなたの将棋を見てていつもあるところで急に弱くなることに気がついたの。
それまでは圧倒的に有利なのに、突然それまでの強さが嘘のように……まるで勝つための一手を忘れてしまったかのように崩れてしまうの。私には、たぶんその理由が分かるわ。理由を知りたい?教えてあげてもいいけど、一つだけ条件があるわ。今すぐ白山墓地に来てくださるのなら教えてあげるわ。」
と言った。
「え、しかし今は対局中なので……」
藤木がとまどいに言葉を濁すと、女は
「私は別にどうでもいいのよ。でも、このままではあなたはどのみち今日の対局は負けるし、これからも大事なところで負け続けるのでしょうね。」
と答えた。

 白山墓地は対局が行われているホテルからタクシーで十分ほどの距離にあった。暮色の近づいた墓地の真ん中あたりに、花束を手に提げた女が一人で立っていた。
「藤木ですが、あなたが……」
挨拶をしながら女の顔を見ると、写真とは少し雰囲気が違う。しかし、これも見覚えのある顔だと藤木は不可思議な感じを受けた。女は藤木に軽く会釈をして、傍らの墓石に向き直ると
「姉さん。藤木さんが来ましたよ」
と墓石に話しかけた。墓碑に刻まれた名前を見たが、藤木には思い当たる節がない。
「あなたの姉さんというのが、この写真の女性ですか?」
写真を見せながら藤木が問いかけると、女性は哀しそうな顔をして
「ええ、やはりあなたは何も覚えていないのですね」
といって目を伏せた。少しの沈黙の後、女は「これは見覚えありますか」と手に提げたバッグから何かを出した。藤木が受け取ると、それは香車の駒だった。裏の金と書かれた文字のかすれ具合に見慣れた感じがする。間違いない、それは藤木がかつて使っていた駒だった。駒には一面に赤い斑点のような血の痕がついていた。その痕を見たとき藤木には遠い記憶が急速に蘇ってくるのを感じた。血で染まった畳。握りしめられた香車の駒。
 藤木は彼女のアパートでいつものように盤に駒を並べ、独り将棋の研究をしていた。終局を模した盤面を見つめながら、藤木が不意に思いついた香車からの攻めを試そうと駒台に手を伸ばしたときだった。目の前のふすまが開き、険しい顔つきをした彼女が立っていた。手には鋭い包丁が握られている。かすかに彼女の口が動き何かをつぶやいたようだが、藤木には何を言っているのか分からなかった。ただ次に覚えているのは藤木の腕に抱かれた彼女の横顔。鮮血が胸を染め、床に落ちた包丁が赤く光っていた。藤木は立つことも、身じろぎすることさえできず、彼女の傷口を背中からじっと押さえていた。
 部屋が夕闇で暗くなった頃、彼女の妹が帰ってきた。もちろん、妹は彼女と藤木の関係を知っている。その当時、藤木が大切な対局を控えた大事な時であることも。そして、藤木には妻子があり、二人が隠さざるを得ない関係であることも知っていた。
「藤木さん、この家からあなたのものを持って出て行っていただけませんか。」
妹はひとしきりの哀しみの後、きっぱりとした口調で言った。そして、依然うろたえた表情で座っている藤木のそばで、藤木の荷物をまとめ始めた。藤木もようやくのろのろと、目の前の盤面を片づけ始める。片づけながら、香車が一枚足りないのに気がついた。駒台に載っていた、詰めの起点となる香車だった。藤木が辺りに目を走らせると、なぜか彼女の右手に香車が握られているのが見えた。倒れた拍子にたまたまつかんだものだろう。しかし、藤木は血痕のまばらについたその香車を取ることはできなかった。彼女の手にある香車の記憶に、今日の棋聖との対戦で駒台から取り上げた香車がだぶって見えた。
 「ごめんなさい」墓地の夕暮れに沈んでいく藤木の表情の変化を見ながら彼女の妹が言った。「嫌なことを思い出させてしまったようですね。でも、あれは藤木さんのせいではないのです。姉はあの先、長くはなかったんです……それなら、藤木さんに抱かれながらと……ごめんなさい、でも姉が誰にも忘れられたまま消えてしまうのは寂しかったんです……」
「ねえ、」から続く彼女の口癖を藤木は思い出していた。「あなたは強くていいわね。将棋盤の前に座ればいつも無敵だもの。」藤木はその都度いついつの対局で負けたなどとたわいない反論をしていたのだが、今度ばかりは本当は自分が弱い人間であることを認めざるを得ないと思った。彼女が亡くなったショックで未だに香車も満足につかめないのだ。それでも、俺は変わることができる。彼女の記憶とあのころのがむしゃらに上を目指していた自分を思い出しながら、藤木は血の痕のついた香車を懐に入れた。

(2005.11.03)

この作品はデジタル社会塵第17回に参加しています。
条件:
 1)人間以外の「あるモノ」が紛失する。
   ※人間以外であれば、動物、昆虫、怪獣、宇宙人も可。
 2)「あるモノ」を持っているという人間から連絡がある。「ある要求」を呑まなければ、
   そのモノを永遠に失うことになると脅す。
 3)「ある要求」は、金銭あるいは政治的要求ではない。
   ※政治的要求とは、誰々を釈放しろ、というものを含む
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