2005年11月03日

指紋

 隣の部屋で警部が軽く片手を上げたのが見えた。何か質問があるのだろう。私は手帳をくって今回の事件のページを開けながら、隣の部屋に入った。
「えーと、君、済まないけどもう一度事件のあらましを聞かせてくれないかな。」
「はい。事件の被害者は大友昌子、28才、このマンションの部屋の住人です。大友は建築事務所に勤務しており、この部屋で一人暮らしでした。死因は足下に落ちている鉄アレイで後頭部をガツンと一撃、即死だったと思われます。事件は昨夜の十時頃と思われますが、近所の住人は特に大きな音には気づかなかったと言っています。」
「ふーん、昨日は休日だし、誰かこの部屋に来ていたという可能性は?」
「特に親しい近所づきあいはなく、詳しいことは分からないですが、彼女が誰かを部屋に入れるところを見た者はいないようです。」
「ふーん、じゃあ、物取りの仕業かね……。」
警部は足下の鉄アレイが気になるらしく、「これ触ってもいいかい?」と鑑識に声を掛けると、緑色の鉄アレイをさも重そうに両手で持ち上げた。
「こういうの、最近ダイエットとか言って若い女の子が使っているんだろ?こいつはかなり重いなあ。ここから、犯人の指紋は出なかった?ドアノブからも出なかったのか。ふーん、彼女の指紋も出ないなら、確かに犯人は後から何かで拭い取ったんだな。賢いやつだ。あっ、ドアノブの鑑定も済んだのなら、このドアを開けてもいいかい?」
あわてて鑑識官が制止するも間に合わず、警部がおもむろにドアを開けると、部屋の奥から小さな犬が大きな声で立て続けに吠え立てた。真っ白いポメラニアンで、首には飼い主の趣味だろうか、チェックの入った蝶ネクタイを巻いている。
「被害者が飼っていた犬です。女性の一人暮らしですから、用心のために飼っていたのでしょうが、ともかくうるさく吠え立てるので、鑑識が終わった部屋に押し込めておいたのです。」
「番犬としては申し分ない犬だな。でも、これで一つ分かったことがある。昨夜はこの犬が吠えなかったのだから、犯人は顔見知りの可能性が高いな。」
「では、さっそく彼女の交友関係を中心に捜査を進めますか。」
「いや、むしろこの犬の交友関係から調べた方が早いかも知れん。犯人は昨夜、この部屋の指紋を全部拭き消すことができたのだから、以前に来たことはないのだろう。となると、外でこの犬とも会っている可能性が高い。まず、犬の散歩のルートからあたってみようか。」
「分かりました。警部、他には?」
「そうだな、こいつの好きな物、ドッグフードも調べておくか。手なずけるにはそいつが一番だからな。ドッグフードをいつも買うのに使っている店、かかりつけの獣医がいたらそこも調べてくれ。こういう室内犬は育ちが良さそうだから、ペットショップで買ってくるものなんだろう?じゃあ、そこもあたっとく必要があるな。そうそう、犬の指紋も採っておいてくれよ。」
「犬の指紋ですか?分かりました。」

「今回の事件は、割と早く片が付きましたね。」
事件解決の祝杯を、と警部に誘われた私は、警部の行きつけの店でビールをごちそうになっていた。話題は自然と事件のことになる。
「まあ、物証が出たからな。頭を使うやつほど、証拠が出ると脆いものだ。」
「そうですね、やっぱり決め手は犬の指紋でしたね。」
冷たいビールを喉へと通しながら、事件のことを思い返す。犯人は警部の読み通り、犬の散歩で彼女と知り合った会社勤めの男だった。彼女との接点はそこしかなく、現場の証拠さえ消してしまえば疑われる心配もない。冷静に計算された筋書きに食い違いが生じたのは、犬の蝶ネクタイから出た男の指紋だった。首輪を巻かれた散歩の時にしか会ったことがないはずの犬の“室内着”から指紋が検出されたことを指摘すると、男は蒼白になり、ほどなくして自らの犯行を認めた。
「でも、犯人は本当に犬好きだったようですね。犬を吠えさせないことは成功させたわけですから。でも、可愛がっていたから指紋を残すことになったのか。」
「うまく手なずけたつもりでも、思わぬところで仇を返されることもあるものだしな。うちの娘なんか少し甘い顔をすると……。」
そう言いながら、警部の頬が自然と緩んだ。

(2005.1.21)


― いかがでしたか?(さらに詳しく
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posted by 貴 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小説
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