2006年09月16日

赤白

 「あら、他に誰か来てるの。」
うしろで美樹の声がした。振り返ると、暖かくなってきた春の日射しに合わせるように軽装になった美樹が笑って立っていた。いつの間にか、待ち合わせの時間になっていたようだ。
「いや、そんなんじゃないよ。ただ、どっちがうまいかと思ってね。」
言いながら、私はワインの入った二本のデカンタをテーブルの脇へよけた。美樹が向かいの席に座る。二人の間には赤と白のワインで満たされたグラスが二つ並んで立っていた。
「私もちょっともらおうかな。ねえ、赤と白のどっちがおいしかった?」
二つのグラスを交互に眺めながら、美樹が明るい声できいた。

 「なあ、ワインって赤と白、どっちがうまいと思う?」
それまで黙っていた剛が妙に明るい声で言った。あれは確か中学からの帰り道のことだっただろうか。いつもなら話の輪の中心にいる剛が不機嫌な様子で黙っていたので、なんとなく重苦しい気分でみんな歩いていた時だ。
「通は赤の方がいいって言うらしいぜ。」
いつものように何でも知っているような顔でマサトが答えた。
「いいって、どういう風にいいんだよ。」
少し不機嫌な声に戻った剛が言い返した。マサトは少し顔を赤らめたが、それ以上なにも言わなかった。代わりに、剛は私の方を向いて
「哲也、お前はどっちがうまいと思う。」
と聞いた。
「さあ、僕はどっちも飲んだことないし」
「そうだよ、飲んでみないと分かるわけないじゃん」
調子のいいショウが笑いながら私の後に続いた。
「どうせ、剛だって飲んだことないんだろ?」
 そのすぐ後に、私達は剛の家に集まっていた。もちろん、目的はワインのことをはっきりさせるためだ。剛の家はフローリングのよく似合う新しめの一戸建てで、玄関が見上げるばかりの吹き抜けになっている。いつもなら、吹き抜けの下でおばさんに挨拶をして入るのだが、その日は誰もいない代わりに奥から剛の声が聞こえた。
「おう、勝手に上がってきてくれ。奥の台所にいるから」
台所に入ると、すでにマサトとシュウが来ていた。二人は剛が赤ワインのボトルを開けようとしているのを、にやにや笑いながらはやし立てていた。剛の足下にはコルクが小さなくずになって落ちていた。すでに、何度か開けるのに失敗したらしい。
「あのワイン、どうしたの」
私が小声でマサトに聞くと、「剛の家のワインらしいよ。なかなかいいワインらしいぜ」と嬉しそうに答えた。
「でも、勝手に開けてもいいのか?」
「ああ、今日は家に剛しかいないから親にはばれないってさ。」
「ふーん、そんなものかな」と、私はそんなことないんじゃないかと思いながらもうなずいた。
 ついに、四つの並んだグラスが順に濃い赤褐色の液体で満たされた。初めのグラスはコルクが浮いているのが見えたし、まだ中学生だった私はグラスに注がれるごとにワインはだんだん濃くなっていくように思えたので、無難そうに見える二番目のグラスを選んだ。一番目のグラスは剛が、三番目のグラスはシュウが取った。マサトは「最後のグラスには沈殿物が……」とぶつぶつ言いながらも四番目のグラスを取った。みんなで互いに何か言い合いながら乾杯して、ワインを一口飲んだ。――誰もうまいとは言わなかった。剛は「渋い」と言い、シュウは「甘くない」と言い、マサトは「少し古かったんじゃない」といった。私も渋くて甘くないと思った。二口目も飲んでみたが、やはり誰もうまいとは言わなかった。
 「じゃあ、白いワインも飲んでみよう。」
少し顔の赤くなった剛が三割ほど飲んだグラスをテーブルに置いて言った。
「え、さっき白ワインは見つからないって言ってたじゃんか。」
やはり頬に赤みのさしたマサトが、大げさに声を上げて言った。
「ああ、白ワインはないよ。白ワインはーな。でもさ、お前さ、白ワインと赤ワインの違いってなんだか知ってるか?」
質問に意表をつかれたマサトは右斜め上を軽く見上げたまま黙ってしまった。代わりにシュウが大声で答えた。
「そりゃ、決まってるじゃんか。赤ワインは赤くて、白ワインは白い。」
「いや」私もつられて声を上げた。「白ワインは透明だろ?」
「それも違うな」
言いながら剛が少し黄みがかった透明な液体の瓶をテーブルの上に置いた。
「白ワインの色はこれだろ。」
剛が置いたのは酢の瓶だった。
「これで白いワインを作るぞ」
赤らんだ剛の顔は、しかし真剣である。マサトはあっけにとられて何か口走ったが、「よし、作るぞ」と叫んだシュウの声にかき消された。
 ボトルにわずかに残っていた赤ワインを九割方の酢で割って作った白ワインは、やはり酢の味しかしなかった。飲めるんだろうけど飲めない赤ワインと、飲めるんだけど飲みたくない白ワイン。私とマサトとシュウはこの二つのグラスをテーブルの上に並べ、その中の液体を互いに持て余しはじめていた。シュウは酒に弱い性分なのか、少し気持ちが悪そうにも見えた。剛だけは相変わらずの真剣さで赤ワインと白ワインの飲み比べを続けていた。少し赤らんだ顔もさっきと変わらない。
「それで、赤と白、どっちがうまかったんだ?」
私が聞くと、剛は少し遠くの方を見るような目をして白ワインを一口飲み
「白ワインかな。ちょっと酸っぱいけどな」
と真顔で言った。酸っぱいだって、お酢なんだから当たり前じゃないか。私が笑って言うと、剛も急にさばさばとした顔になって笑って「そりゃそうだよな。でも赤よりこっちの方がうまいと思うな」と答えた。
 それから一ヶ月ほど後のことだったか。剛の両親は離婚し、剛は父親に引き取られて遠くの町に引っ越していった。「あのワインを飲んだ日が実際、山場だったらしいぜ」どこからそんな情報を聞いてくるのか、剛がいなくなった後でシュウが私にこっそり教えてくれた。それでだろうか、神妙な顔をして渋いワインと酸っぱいワインを交互に飲み比べている姿が、私の剛についてはっきり覚えている最後の記憶になった。

 「ねえ、赤と白のどっちがおいしかったの?」
私が黙っていたので、美樹はもう一度同じことを聞いた。あの時、私に促されて剛も同じように結論を導き出したのだろうか。でも、その結論は結局、離婚したら父親についていくということだったとしたら、たぶん必要だったのは決断だけで結論なんて始めから決まっていたんだと思う。今、私がこうしてワインを眺めながら最後の決断をしようとしているのと同じように。
 私は赤ワインのグラスを取って、軽く一口飲むと
「やっぱり赤の方がうまいと思うな。ちょっと渋いけど」
と言いながら、右のポケットに忍ばせた赤い指輪の箱にそっと手を触れた。

(2006.01.20)

この作品は超短編小説会の2006年1月のタイトルに参加しています。
条件:タイトルが『赤白』


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posted by 貴 | Comment(0) | TrackBack(0) | 企画もの
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