2005年12月17日

クリスマスプレゼント

 最近、ゴップルバッハ氏の機嫌がすこぶるいい。いつもなら、不機嫌そうな顔であくびを噛みしめながら愛犬ダビーの後について早朝の町を歩くのが習わしの彼なのだが、このところ心なし弾むような足取りで揚々と歩いていく彼の姿が見られた。そして、出会った人にまだ静かな町を起こさない程度に大きな声で「おはよう」と声をかける。「おはよう、ツベルクさん」「おはよう、ハシリーンさん。今日もいい天気になりそうですね」誰かれとなく、愛想よく笑顔さえ振りまく。そんな彼の変容ぶりに挨拶をされた早朝散歩族の町の人だけでなく、愛犬ダビーでさえも戸惑っているようだった。これまでのゴップルバッハ氏なら災いを避けるように人の通らない道を選び、いかにも億劫といった様子でのろのろと歩いていたものだ。いや、それだけならせいぜい気難しいタチというぐらいのことで、不機嫌と揶揄するほどのことではないと思うかも知れない。しかし、ゴップルバッハ氏の様子が傍目で見てても変わったというのは、皆の一致した見解だった。少なくともダビーには、散歩の途中で突然飛び出してくる猫を追いかけるようダビーをけしかける、といった野蛮な行いを慎むだけのゆとりが今の彼にあることを感じていた。実際、猫はこれまでゴップルバッハ氏の最大の憧れであり、そして最大の敵であった。なぜなら、猫にはいつの間にか彼が失ってしまったもの――自由や孤独、そして尊厳といったものを今でも頑なに守っているように思えるからだ(もともと彼がそんな美徳を持っていたかは、彼には問題ではない)。こいつ、このちっぽけな分際のクセして俺を薄目で見ていやがる。迷惑な話だが、道の先を朝の光にまぶしそうに細眼の猫が悠然と歩いているのを見ると、彼は無性に腹が立ったのだ。
 彼が猫を敵対視しなくなったのには、もちろん理由があった。彼もまた自由と孤独と、そして本来彼が持っていたと信じる尊厳を再び約束される身分になったからだ。ありていに言えば、彼は2週間も待たずにやって来るクリスマスを過ごした後、三十年ばかりを共に連れ添ってきた細君と離婚することになっていた。ゴップルバッハ氏の細君というのは実によくできた人で、ほんとのところゴップルバッハ氏などいない方が万事うまくいきそうなぐらいよくできた人だった。頭の回転が速くて、全てのことがゴップルバッハ氏より早く、そして見事なぐらい上手に出来た。稼ぎだって細君の方が数倍上回っていたし、ダビーだって実は細君のシンパであることは疑いようもなかった。そんな具合だから、ゴップルバッハ氏は自分が家でいる場所がないような窮屈な不自由をいつも感じていた。そして、彼の細君がゴップルバッハ氏は本当は『子供のように無邪気な心の持ち主』ではなく、『大人になり損ねた不器用な大人』であるという重すぎる幻滅を感じた時以来、彼もまた2人の間に生じた新たな重圧を感じざるを得なかった。彼の細君は次第に太り始め、ゴップルバッハ氏はいつしか孤独を渇望するようになった。そして、2人が長い時間をかけてようやく出した答えが離婚だった。
 クリスマスもあと一週間に近づいた日曜の昼、ゴップルバッハ氏は一人で隣町に出かけた。最後のクリスマスプレゼントを買いに行こうと思ったのだ。隣町にはすこし大きなデパートがあり、二人の記念とするのに相応しいちょっと気の利いたものが見つかりそうに思えた。ゴップルバッハ氏はデパートに着くと、まず最上階までエレベータで上った。最上階は家具のフロアーになっていて、木目調のテーブルやふっくらとしたソファなどが所狭しと並んでいた。ゴップルバッハ氏は順々にそれらを見て回って、何かいいものはないかと探し始めた。しかし、まわるうちに『あのソファを買ったら二人で並んでテレビを見るのもいいかな』とか『あのテーブルは差し向かいで座るのにちょうどいい大きさだな』などと変な空想が働いて、どうにもここはプレゼントを選ぶのに相応しくなさそうだと思い始めた。そこで、エスカレーターを使って1階下りると、そこは文房具や時計のフロアーだった。そういえば、細君の使っている万年筆もだいぶ年季が入っていたなと思い浮かび、ゴップルバッハ氏は文房具のコーナーに足を向けた。自分は万年筆など使ったことはないが、細君が使っている姿は何度も見たことがあるから、どの万年筆を買えばいいかぐらいは分かるだろう。そう考えながら、ゴップルバッハ氏は万年筆のショーケースの前で細君が万年筆を使っている姿を思い出そうとした。すると頭の中で、細君がいつもの端正な文字で手紙を書いているところが思い浮かんだ。その手紙が自分宛になっているような気がしてドキリとしたが、悪い気はしなかった。いずれにせよ、変に気を回させるようなものをプレゼントするのはよくないなと思った。
 ゴップルバッハ氏が再びフロアーをぶらぶら歩き始めると、その先の一角に貴金属品のコーナーがあるのに目がとまった。そういえば結婚の時以来、細君に指輪の一つも買ってあげたこともなかったことに気がついた。ならば、彼がが宝石店に入ったのはあれ一度きりと言うことになる。ゴップルバッハ氏の顔に苦笑が浮かんだ。あの日のことを思い浮かべたのだ。日曜なのにわざわざスーツを着て出かけたので、彼女はびっくりした目で彼を見つめた。その時の彼にすればリッチな人たちの行くところだろうから当然の配慮と思ったのだが、今思えばなんともおかしなことをしたものだ。宝石店では彼女が始終リードをして、彼がダイヤが少なくとも三つはついているのをと思っていたのに、彼女の方で小さなダイヤが一つ付いているだけのに決めてしまった。口では婚約指輪にはこっちのもっと大きなダイヤをとか言いながら、内心はかなりほっとしたのを今でも覚えている。
「いらっしゃいませ」
貴金属のコーナーに足を踏み入れると、すかさず店員が声をかけてきた。
「奥様のクリスマスプレゼントですか?」
「えぇ……、まぁ……」
慣れない雰囲気にゴップルバッハ氏は口ごもりながらも、目をショーウィンドウに並んだ宝石の上を泳がせる。
「そうですね、クリスマスでしたらルビーなどいかがですか。赤い色が華やかで、この季節にぴったりですよ」
「あ、これ、このダイアの指輪を見せて頂けませんか。この奥のです」
店員の言葉を遮って、ゴップルバッハ氏は小さなダイアが一つ付いている指輪を指さした。ちょうどあの時のダイアと同じぐらいの大きさだ。指輪を受け取って一目見ると、ゴップルバッハ氏はすっかりこの指輪が気に入ってしまった。あの時のとは雰囲気が違う可憐な趣の指輪だが、それでもダイヤの小ささに言いようのない初々しさを感じる。最後のプレゼントに相応しいように思われた。
「これ、いただきます」
「そうですか。奥様の指のサイズはいくらかご存じですか」
指のサイズか、いくらだったかな。いや、前に買った時からかなり経っているからサイズも変わっただろうな。まあ、いくらでもいいか。子供のようないたずらっぽい笑顔を浮かべたゴップルバッハ氏は、前に買った時の細君の指のサイズを店員に告げていた。

 「これが最後のクリスマスだね」
食事の後のコーヒーを飲みながら、ゴップルバッハ氏は同じようにコーヒーのカップを両手で持っている細君に向かって行った。細君は「そうね」と小さな声で答え、もしも二人の間に子供でもいたらそうはならなかったかも知れなかったわね、という言葉を飲み込んだ。静かな時間が二人の間に流れていた。
「君にクリスマスプレゼントがあるんだ」
さも今思い出したようにゴップルバッハ氏は告げ、右手をガウンのポケットに入れた。そうしながら細君のコーヒーカップを握っている、すっかり太くなった指を眺めた。細君も「私からもプレゼントがあるの」といって、隣の部屋に取りに行った。
「プレゼントを選びながら、ちょっと昔のことを思い出しちゃってね」
隣の部屋から戻ってきた細君が「そうね、私もいろいろ思い出しちゃった」と言った。ゴップルバッハ氏は実のところ、今は細君の昔の白魚のように細かった指のことしか思い出してはいなかった。
「これ、最後のプレゼントだけど、受け取ってくれ」
ゴップルバッハ氏がポケットから小さな箱の入った包みを取り出すと、細君も「これ、あたしからの最後のプレゼント」と細長い平たい箱の入った包みを差し出した。お互い受け取って、互いのプレゼントの包みを見つめる。
「なんだか、開けられないな。お互い別れてから、開けることにしようか」
細君も「そうね、なんだか重苦しい雰囲気になっちゃったわね」と言いながら、プレゼントを小脇に置いた。ゴップルバッハ氏はそれを見て、昔のサイズの指輪を買ってきたいたずらがこの場でばれなかったことにほっとした。後で開けた時、彼女はこのいたずらに気づくのだろうか、それとも「サイズを間違えるなんてやっぱり馬鹿な人」と片づけてしまうのだろうか。
 細君の方でも、この場でゴップルバッハ氏が彼女のプレゼントを開けなかったことにほっとしていた。あの包みの中には、彼が長年愛用していたブランド物の櫛が入っていた。昔は肌身離さず身につけ、鏡を見つけてはちょっと気障な立ち振る舞いで髪を整えていたものだ。今となっては、外見上すっかりその必要もなくなってしまったようだが。
 少し最後のプレゼントには相応しくないものだったかなという細君の戸惑いをよそに、ゴップルバッハ氏の穏やかな言葉が聞こえた。
「あぁ、雪が降ってきたよ。今年は寒いと思っていたけど、格別に寒かったんだね。やっぱり今晩は忘れられないクリスマスになりそうだな」
静かな時間が二人の間に流れていた。

(2005.12.17)


― いかがでしたか?(さらに詳しく
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posted by 貴 | Comment(1) | TrackBack(0) | 企画もの
この記事へのコメント
評価:☆☆☆☆(おもしろい)
Posted by Mr.X at 2006年06月17日 13:01
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