2008年07月21日

空き缶

 二日たった今でも、私は余韻に浸っていた。道ばたで身じろぎもせず、ただ上を見あげて佇む。みっともないまでに口を開けたまま立ちつくしている私を見て、誰か笑うだろうか。笑うなら笑え。あの時交わした美女との長い口づけのあと、身も心もすっかり軽くなった私には他人の視線など気になるはずがあろうか。
 コーヒー飲料のロング缶として生まれた私の半生は不遇だった。ロング缶の存在とはいったい何なのだろうか。折もおり、日本茶が好まれるこの時代で彼らに太刀打ちできるコーヒー飲料といえば、苦みのきいたショート缶。本格派、深炒り、無糖、ブラック。彼らには凝った肩書きが用意されているのに、私にあてがわれた形容詞はせいぜい『甘さ控えめ』。コーヒーらしい苦さなんて誰も期待していないか?いいや、コーヒーであることすら私に期待していないのかも知れない。いつまでも売れ残っている自販機の中で私はずっとそんなことを考えていた。ああ、すべてがほろ苦かった。
 その日はありふれた冬の一日だったが、とにかく寒い日だった。とくに、夜に入ってからの底冷えは強烈で、できれば暖かい部屋の中でぬくぬくとくつろいだ時間を過ごしたいと思うような、そんな日だった。そんな日なのに、彼女は冷たく月の光る夜半を少しまわった頃、疲れた足取りで独り歩いていた。月はまだ東の空にあったから彼女の影を背後に道なりに長く伸ばしていたが、そんなことに彼女は気づきもしなかった。ただ、月の青白い光りが照らす疲れた顔を気丈に前に向けながら、かつかつかつとかすかにヒールの音をさせ、寝静まった町を歩いていた。そして、自販機の前を行き過ぎようとして――、立ち止まった。
 ハンドバックから財布を取り出した彼女の白い指が、五百円硬貨を親指と人差し指で挟んで自販機に入れた。機械の中を硬貨が転がり落ちる音がして、並んだボタンが赤く点灯する。彼女の白い指がショート缶のコーヒーを選ぼうとして、ちょっと惑った。青いラベルの都会的なそのコーヒーは彼女に似合う怜悧な雰囲気がした。でも、彼女は小さな溜息をつくと、その横のロング缶のボタンを押した。とたんに、私を支えていた底板がなくなり、私は外へ飛び出した……がたがたっとあちこちを壁にぶつけながら。
 彼女は自販機から私を取り上げると、両手で優しく包んだ。彼女の手は冷たかったが、うだるような暑さに慣れていた私にはむしろ心地よかった。彼女は私を包んだまま、すぐ近くにあったバスを待つためのベンチに腰をおろした。そして、私を軽く振ってからプルタブを引く。ぷしゅっ。小気味いい音を立てて私は深呼吸した。冷たい外気が入ってくる。寒さに思わず声が漏れそうになった私の口を、彼女の唇が塞いだ。
「熱っ」
一口飲んだ彼女は慌てて唇を離した。そして今度はゆっくりと私を冷え切ったその頬に当てると、
「あったかいな」
とつぶやいて、穏やかな表情をした。間近で見る彼女は澄んだ目をしていて、ショートな髪が月の光に黒く輝いていた。そして、化粧品のいい香りに混じってかすかにコーヒー飲料の甘い匂いがした。私はこの安らかな時間がいつまでも続けばいいと思った。だけど、彼女が一口コーヒーを飲むたびに彼女と過ごす時間がそう長くないことを感じないわけにはいかなかった。次第に中身の虚しくなっていく自分自身が別れが近いことを告げていた。
 あれから二日の月日が過ぎたが、私はあの夜に彼女に置かれたまま、道ばたに佇んでいる。人の通りがあると誰が行くのかと思わず見上げるのだが、彼女をあの夜から見ることはなかった。道の向こうを行く黒猫が私に声をかけた。
「おい、汝、転生の約束されたものよ。汝のさだめに従っていけ。罪は彼の女が負うべし。」
言われて気がついた、私は再生の道を歩まねばならない。それなのに再生(リサイクル)を妨げた彼女の行為は贖罪に値する。しかし、あの夜の疲労に満ちた彼女に責めを負うのか。
「黒猫よ、私は彼女を待っている。あの夜、彼女は私と約束した。再会の日に私に転生の務めを必ず果たさせると」
黒猫はそれを聞いて、ふんっと鼻を鳴らすと
「汝、空き缶よ。その言葉を審判の時にも言えるのか」
と訊いた。最後の審判。そこで嘘の証言をした者はその科として、大きな鉄の舌抜きでプルタブを引き抜かれる。それも缶の内側に入った舌の先を無理矢理ねじ上げられて、そこから引き抜かれるのだ。その苦痛を思い浮かべただけで身の縮む思いがした。しかし、私は答えねばならぬ。
「私は……彼女と約束したのだ」
無論、彼女があの晩に約束したことなど何もない。それなのに、私は彼女とぬくもりを分け合って過ごしたあの夜のひとときのためだけで、彼女をかばっているのか。鉄はそんなにも熱くなりやすいものなのか。それともロング缶特有の、すべてを抱擁する内容積の大きさと苦い現実を忘れさせるミルクコーヒーの甘さがそうさせるのか。自嘲の言葉が上澄みのように浮かんできた私の心を見透かしたように、黒猫が言った。
「されば、待つがよい。彼の女がこの町を出たこともいずれは知るだろう」
その言葉は、空っぽになった私の身体の中を何度もこだました。

(2006.3.22)


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